アう導こうとのみ焦心した彼は、その頃に成って、初めて何が園子の心を悦《よろこ》ばせるかを知った。彼は自分の妻もまた、下手《へた》に礼義深く尊敬されるよりは、荒く抱愛されることを願う女の一人であることを知った。
 それから岸本の身体は眼を覚《さ》ますように成って行った。髪も眼が覚めた。耳も眼が覚めた。皮膚も眼が覚めた。眼も眼が覚めた。その他身体のあらゆる部分が眼を覚ました。彼は今まで知らなかった自分の妻の傍に居ることを知るように成った。彼が妻の懐《ふところ》に啜泣《すすりなき》しても足りないほどの遣瀬《やるせ》ないこころを持ち、ある時は蕩子《たわれお》戯女《たわれめ》の痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆、何事《なんに》も知らずによく眠っているような自分の妻の傍に見つけた悲しい孤独から起って来たことであった。岸本の心の毒は実にその孤独に胚胎《はいたい》した。
 岸本はずっと昔の子供の時分から好い事でも悪い事でも何事もそれを自分の身に行って見た上でなければ、ほんとうにその意味を悟ることが出来なかった。彼は悄れた節子を見て、取返しのつかないような結果に成ったことを聞いて、初めて羞《
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