セ達者でいた頃の下座敷の光景《ありさま》だ。岸本はその頃のさかりの園子を、女らしく好く発達した彼女を、堅肥《かたぶと》りに肥《ふと》っても柔軟《しなやか》な姿を失わない彼女の体格を、記憶でまだありありと見ることが出来た。岸本はまたその頃の記憶を階下から自分の書斎へ持って来ることも出来た。独《ひと》りで二階に閉籠《とじこも》って机に向っている彼自身がある。どうかするとその彼の背後《うしろ》へ来て、彼を羽翅《はがい》で抱締めるようにして、親しげに顔を寄せるものがある。それが彼の妻だ。
園子はその頃から夫の書斎を恐れなかった。画家のアトリエというよりは寧《むし》ろ科学者の実験室のように冷く厳粛《おごそか》なものとして置いた書斎の中に、そうして忸々《なれなれ》しくいられることを彼女は夢のようにすら楽しく思うらしかった。岸本が彼女に忸々しく仕向けたことは、必《きっ》とその同じ仕向けでもって、彼女はそれを夫に酬《むく》いた。時には彼女は夫の身体《からだ》を自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前《めのまえ》に見るその同じ部屋の内だ。長いこと妻を導
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