秤ョの壁の上に、独《ひと》りで静坐することを楽みに思う岸本の影法師を大きく写して見せていた。岸本はその影法師を自分の友達とも呼んで見たいような心持でもって、長く生きた昔の独身生活を送った人達のことを思い、世を避けながらも猶かつ養生することを忘れずに芋《いも》を食って一切の病気を治《なお》したというあの「つれづれ草」の中にある坊さんのことを思い、出来ることならこのまま子供を連れて自分の行けるところまで行って見たいと願った。
「旦那《だんな》さん、お粂《くめ》ちゃんの父さんが参りましたよ」
 と婆やが楼梯《はしごだん》の下のところへ来て呼んだ。お粂ちゃんとは、よく岸本の家へ遊びに来る近所の針医の娘の名だ。
 頼んで置いた針医が小さな手箱を提《さ》げて楼梯を上って来た。過ぐる年の寒さから岸本は腰の疼痛《いたみ》を引出されて、それが持病にでも成ることを恐れていた。自分の心を救おうとするには、彼は先《ま》ず自分の身《からだ》から救ってかかる必要を感じていた。
「あんまり坐り過ぎている故《せい》かも知れませんが、私の腰は腐ってしまいそうです」
 こんなことをその針医に言って、岸本は家のものの手も借
前へ 次へ
全753ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング