ヲなかった。人が亡《な》くなった後の屋根の下を気味悪く思って、よく引越をするもののあるのも笑ってしまえなかった。
岸本は仏壇の前へ行って立って見た。燈明のひかりにかがやき映った金色の位牌《いはい》には、次のような文字が読まれた。
「宝珠院妙心|大姉《だいし》」
十一
「汝《なんじ》、わが悲哀《かなしみ》よ、猶《なお》賢く静かにあれ」
この文句を口吟《くちずさ》んで見て、岸本は青い紙の蓋《かさ》のかかった洋燈《ランプ》で自分の書斎を明るくした。「君の家はまだランプかい。随分旧弊だねえ」と泉太の小学校の友達にまで笑われる程、岸本の家では洋燈を使っていた。彼はその好きな色の燈火《あかり》のかげで自分で自分の心を励まそうとした。あの赤熱《しゃくねつ》の色に燃えてしかも凍り果てる北極の太陽に自己《おのれ》の心胸《こころ》を譬《たと》え歌った仏蘭西《フランス》の詩人ですら、決して唯《ただ》梟《ふくろう》のように眼ばかり光らせて孤独と悲痛の底に震えてはいなかったことを想像し、その人の残した意味深い歌の文句を繰返して見て、自分を励まそうとした。
黄ばんだ洋燈の光は住慣れた
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