黷ルどよく聞えないまでも、二階に居て階下の話声は――殊に婆やの高い声なぞは手に取るように聞える。そこへ昇って行って自分の机の前に静坐して見ると、岸本の心は絶えず階下へ行き、子供の方へ行った。彼はまだ年の若い節子を助けて、二階に居ながらでも子供の監督を忘れることが出来なかった。家のものは皆|屋外《そと》へ遊びに出し、門の戸は閉め、錠は掛けて置いて、たった独《ひと》りで二階に横に成って見るような、そうした心持には最早《もう》成れなかった。
 岸本は好きな煙草《たばこ》を取出した。それを燻《ふか》し燻し園子との同棲《どうせい》の月日のことを考えて見た。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
 そう言って、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残っていた。
 岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛った。園子は豊かな家に生れた娘のようでもなく、艱難《かんなん》にもよく耐えられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有《も》っていたが、しかし激しい嫉妬《しっと》を夫に味《あじわ》わせるような極く不用意なものを一緒にもって岸本の許《もと》へ
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