ュ請《ねだ》るようにする子供の声をこの下座敷でよく聞いたばかりでなく、どうかすると机は覆《ひっくりか》えされて舟の代りになり、団扇掛《うちわかけ》に長い尺度《ものさし》の結び着けたのが櫓《ろ》の代りになり、蒲団《ふとん》が舟の中の蓆莚《ござ》になり、畳の上は小さな船頭の舟|漕《こ》ぐ場所となって、塗り更《か》えたばかりの床の間の壁の上まで子供の悪戯《いたずら》した波の図なぞですっかり汚《よご》されてしまったが。
 暗い仏壇には二つの位牌《いはい》が金色に光っていた。その一つは子供等の母親ので、もう一つは三人の姉達のだ。しかしその位牌の周囲《まわり》には早や塵埃《ほこり》が溜《たま》るようになった。岸本が築いた四つの墓――殊《こと》に妻の園子の墓――三年近くも彼が見つめて来たのは、その妻の墓ではあったが、しかし彼の足は実際の墓参りからは次第に遠くなった。
「叔母さんのことも大分忘れて来た――」
 岸本はよくそれを節子に言って嘆息した。
 丁度この下座敷の直《す》ぐ階上《うえ》に、硝子戸《ガラスど》を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった。階下《した》に居て二階の話声はそ
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