ナ《かたづ》いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸《ようや》く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎《ふくしゅう》を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷《きずつ》けた。
九
書斎の壁に対《むか》いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
こんな偽りのない溜息《ためいき》が、女のさかりを思わせるような年頃で亡《な》くなった園子を惜しみ哀《かな》しむ心と
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