ウ》……」
砂揚場の側《わき》に立って眺めていた男の一人がそれを岸本に話した。
両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は綺麗《きれい》に取片付けられ、筵《むしろ》一枚そこに見られなかった。唯《ただ》、入水《にゅうすい》した女の噂のみがそこに残っていた。
思いがけない悲劇を見たという心持で、岸本は家をさして引返して行った。彼の胸には最近に断った縁談のことが往《い》ったり来たりした。彼は自分の倦怠《けんたい》や疲労が、澱《よど》み果てた生活が、漸く人としてのさかりな年頃に達したばかりでどうかすると早や老人のように震えて来る身体が、それらが皆独身の結果であろうかと考えて見る時ほど忌々《いまいま》しく口惜《くや》しく思うことはなかった。「結婚するならば今だ」――そう言って心配してくれる友人の忠告に耳を傾けないではないが、実際の縁談となると何時でも彼は考えてしまった。
岸本の恩人にあたる田辺《たなべ》の小父《おじ》さんという人の家でも、小父さんが亡《な》くなり、姉さんが亡くなって、岸本の書生時代からよく彼のことを「兄さん、兄さん」と呼び慣れた一人子息の弘の
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