熹謔齔Sも疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い蝴蝶《こちょう》がすがれた花壇に咲いた最初の花を探しあてたところである。そしてその蝴蝶も今年になって初めて見た蝴蝶である。僕の好きな山椿《やまつばき》の花も追々盛りになるであろう。十日ばかり前から山茱黄《やまぐみ》と樒《しきみ》の花が咲いている。いずれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅《ろうばい》もどきで、韵致《いんち》の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫《ふる》えている」こう結んである。
 中野の友人には子が無かった。曾て岸本の二番目の男の児を引取って養おうと言ってくれたこともあった。しかし、頑是《がんぜ》なく聞分けのない子供は一週間と友人の家に居つかなかった。結局岸本は二人の子供を手許《てもと》に置き、一人を郷里の姉の家に托《たく》した。常陸《ひたち》の海岸の方にある乳母《うば》の家へ預けた末の女の児のためにも月々の仕送りを忘れる訳にはいかなかった。彼はもう黙って、黙って、絶間なしに労作を続けた。
 岸本の四十二という歳《とし》も間近に迫って来ていた。前途の不安は、世に男の大厄《たいやく》というような言葉にさえ耳を傾けさせ
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