の何方《どっち》か一人が死ぬより外に仕方が無いとまで考えて来たその時までの身の行詰りを思って見た。
元園町は心地《ここち》よさそうに酔っていたが、やがて何か思い出したように客の方を見ながら、
「ねえ、君、岸本君なぞも一度|欧羅巴《ヨーロッパ》を廻って来ると可《い》いね……是非僕はそれをお勧《すす》めする……」
客はこうした酒の上の話も肴《さかな》の一つという様子で、盃を重ねていた。
「岸本君」と元園町は酔に乗じて岸本を励ますように言った。「君も一度欧羅巴を見ていらっしゃい……是非見ていらっしゃい……もし君が奮発して出掛けられるようなら、僕はどんなにでも骨を折ります……一度は欧羅巴というものを見て置く必要がありますよ……」
岸本は黙し勝ちに、友人の話を聞いていた。どうかして生きたいと思う彼の心は、情愛の籠《こも》った友人の言葉から引出されて行った。
二十八
夜は更《ふ》けた。四辺《あたり》はひっそりとして来た。酒の相手をするものは皆帰ってしまった。まだそれでも元園町は客を相手に飲んでいた。それほど二人は酒の興が尽きないという風であった。その晩は岸本もめずらしく酔った。夜が更ければ更けるほど、妙に彼の頭脳《あたま》は冴《さ》えて来た。
「友人は好いことを言ってくれた。これ以上の死滅には自分は耐えられない――」
彼は自分で自分に言って見た。
呼んで貰《もら》った俥が来た。岸本は自分の家を指《さ》して深夜の都会の空気の中を帰って行った。東京の目貫《めぬき》とも言うべき町々も眠ってしまって、遅くまで通う電車の響も絶えていた。広い大通りには往来《ゆきき》の人の足音も聞えなかった。海の外へ。岸本がその声をハッキリと聞きつけたのも帰りの車の上であった。あだかも深い「夜」が来てその一条の活路を彼の耳にささやいてくれたかのように。すくなくも元園町の友人が酒の上で言った言葉から、その端緒《いとぐち》を見つけて来たというだけでも、彼に取って、難有《ありがた》い賜物のように思われた。どうかして自分を救わねば成らない。同時に節子をも。又た泉太や繁をも。この考えが彼の胸に湧《わ》いて来て、しかも出来ない事でも無いらしく思われた時は、彼は心からある大きな驚きに打たれた。
可成《かなり》な時を車で揺られて岸本は住み慣れた町へ帰って来た。割合に遅くまで人通の多いその界隈《かいわい》でも、最早《もう》真夜中で、塒《ねぐら》で鳴く鶏の声が近所から僅かに聞えて来ていた。家でも皆寝てしまったらしい。そう思いながら、岸本は門の戸を叩《たた》いた。
「叔父さんですか」
という節子の声がして、やがて戸の掛金を内からはずしてくれる音のする頃は、まだ岸本は酒の酔が醒《さ》めなかった。
「まあ、叔父さんにはめずらしい」
と節子は驚いたように叔父を見て言った。
岸本は自分の部屋へ行ってからも、胸の中に湧《わ》き上って来る感動を制《おさ》えることが出来なかった。丁度節子は酔っている叔父のために冷水《おひや》を用意して来た。岸本は何事《なんに》も知らずにいる姪にまで自分の心持を分けずにいられなかった。
「可哀そうな娘だなあ」
思わずそれを言って、彼ゆえに傷ついた小鳥のような節子を堅く抱きしめた。
「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」
その岸本の言葉を聞くと、節子は何がなしに胸が込上《こみあ》げて来たという風で、しばらく壁の側に顔を押えながら立っていた。とめども無く流れて来るような彼女の暗い涙は酔っている岸本の耳にも聞えた。
二十九
朝が来て見ると、平素《ふだん》はそれほど気もつかずにいた書斎の内の汚《よご》れが酷《ひど》く岸本の眼についた。彼は長く労作の場所とした二階の部屋を歩いて見た。何一つとしてそこには澱《よど》み果てていないものは無かった。多年彼が志した学芸そのものすら荒れ廃《すた》れた。書棚《しょだな》の戸を開けて見た。そこには半年の余も溜《たま》った塵埃《ほこり》が書籍という書籍を埋めていた。壁の側に立って見た。そこには血が滲《にじ》んでいるかと思われるほど見まもり疲れた冷たさ、恐ろしさのみが残っていた。
遠い外国の旅――どうやらこの沈滞の底から自分を救い出せそうな一筋の細道が一層ハッキリと岸本に見えて来た。何よりも先《ま》ず彼は力を掴《つか》もうとした。あの情人の夫を殺すつもりで過《あやま》って情人を殺してまでも猶《なお》かつ生きることの出来たという文覚上人《もんがくしょうにん》のような昔の坊さんの生涯の不思議を考えた。そこからもっと自己を強くすることを学ぼうとした。一歩《ひとあし》も自分の国から外へ踏出したことの無い岸本のようなものに取っては、遠い旅の思立ちはなかなか容易でなかった。七年ばかり暮しつづ
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