ッているうちにまるで根が生《は》えてしまったような現在の生活を底から覆《くつがえ》すということも容易ではなかった。節子や子供等をもっと安全な位置に移し、留守中のことまでも考えて置いて、独《ひと》りで家庭を離れて行くということも容易ではなかった。それを思うと、岸本の額からは冷い脂《あぶら》のような汗が涌《わ》いて来た。
しかし、不思議にも岸本の腰が起《た》った。腐ってしまいそうだとよく岸本の嘆いていた身体《からだ》が、ひょっとすると持病に成るかとまで疼痛《いたみ》を恐ろしく感じていた身体が、小舟を漕《こ》いで見たり針医に打たせたりしてまだそれでも言うことを利《き》かなかった身体が、半日ぐらい壁の側に倒れていることはよく有って激しい疲労と倦怠《けんたい》とをどうすることも出来なかったような身体が、その時に成って初めて言うことを利《き》いた。彼は精神《こころ》から汗を出した。そしてズキズキと病める腰のことなぞは忘れてしまった。一切を捨てて海の外へ出て行こう。全く知らない国へ、全く知らない人の中へ行こう。そこへ行って恥かしい自分を隠そう。こうした心持は、自ら進んで苦難を受くることによって節子をも救いたいという心持と一緒に成って起って来た。
その心持から岸本は元園町の友人へ宛《あ》てた手紙を書いた。彼は自分の身についた一切のものを捨ててかかろうとしたばかりでなく、多年の労作から得た一切の権利をも挙《あ》げて旅の費用に宛てようと思って来た。この遽《にわ》かな旅の思い立ちは誰よりも先ず節子を驚かした。
三十
「酒の上で言ったようなことを、そう岸本君のように真面目《まじめ》に取られても困る」
これは元園町の友人の意見として、過ぐる晩一緒に酒を酌《く》みかわした客から岸本の又聞きにした言葉であった。岸本はこの友人に対してすら、何故そう「真面目」に取らずにはいられなかったというその自分の位置をどうしても打明けることが出来なかった。
とは言え、元園町からは助力を惜まないという意味の手紙を寄《よこ》してくれた。この手紙が岸本を励した上に、幸いにも旅の思立ちを賛成してくれた人達のあったことは一層彼の心を奮い起《た》たせた。それからの岸本は殆《ほとん》ど旅の支度《したく》に日を送った。そろそろ梅の咲き出すという頃には大体の旅の方針を定めることが出来るまでに成った。長いこと人も訪《たず》ねずに引籠《ひっこ》みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込《うしごめ》へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につかないうちに支度を急ぎたいと願っていた。
「一度は欧羅巴《ヨーロッパ》を見ていらっしゃるというのも可《よ》かろうと思いますね。何もそんなにお急ぎに成る必要は無いでしょう――ゆっくりお出掛になっても可《い》いでしょう」
番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話が出た。この友人は岸本から見ると年少ではあったが、外国の旅の経験を有《も》っていた。
「思い立った時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私も年を取ってしまいますから」
こう岸本は言い紛らわしたものの、親切にいろいろなことを教えてくれる友人にまで、隠さなければ成らない暗いところのある自分の身を羞《は》ずかしく思った。
まだ岸本は兄の義雄に何事《なんに》も言出してなかった。留守中の子供の世話ばかりでなく、節子の身の始末に就《つ》いては親としての兄の情にすがるの外は無いと彼も考えた。しかしながら、日頃兄の性質を熟知する岸本に何を言出すことが出来よう。義雄は岸本の家から出て、母方の家を継いだ人であった。民助と義雄とは同じ先祖を持ち同じ岸本の姓を名のる古い大きな二つの家族の家長たる人達であった。地方の一平民を以《もっ》て任ずる義雄は、家名を重んじ体面を重んずる心を人一倍多く有っていた。婦女の節操は義雄が娘達のところへ書いてよこす何よりも大切な教訓であった。こうした気質の兄から不日上京するつもりだという手紙を受取ったばかりでも、岸本は胸を騒がせた。
「お前のお父さんが出ていらっしゃるそうだ」
それを岸本が節子に言って聞かせると、彼女は唯《ただ》首を垂《た》れて、悄《しお》れた様子を見せていた。でも彼女が割合に冷静であることは岸本の心をやや安んじさせた。
旅の支度に心忙しく日を送りながら今日見えるか明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。
三十一
「や。どうも久しぶりで出て来た。今|停車場《ステーション》から来たばかりで、まだ宿屋へも寄らないところだ。今度は大分用事もあるし、そうゆっくりしてもいられないが――まあ、すこし話して行こう。子供も皆丈夫でいるかね」
義雄は外套《が
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