ェある。彼もまだ極《ごく》若いさかりの年頃であった。止《や》み難い精神《こころ》の動揺から、一年ばかりも流浪を続けた揚句、彼の旅する道はその海岸の波打際《なみうちぎわ》へ行って尽きてしまった。その時の彼は一日食わず飲まずであった。一銭の路用も有《も》たなかった。身には法衣《ころも》に似て法衣でないようなものを着ていた。それに、尻端折《しりはしおり》、脚絆《きゃはん》、草鞋穿《わらじばき》という異様な姿をしていた。頭は坊主に剃《そ》っていた。その時の心の経験の記憶が復《ま》た実際に岸本の身に還《かえ》って来た。曾《かつ》て彼の眼に映った暗い波のかわりに、今は四つ並んだ墓が彼の眼にある。曾て彼の眼に映ったものは実際に彼の方へ押寄せて来た日暮方の海の波であって、今彼の眼にあるものは幻の墓ではあるけれども、その冷たさに於《お》いては幻はむしろ真実に勝《まさ》っていた。三年も彼が見つめて来た四つの墓は、さながら暗夜の実在のようにして彼の眼にあった。岸本園子の墓。同じく富子の墓。同じく菊子の墓。同じく幹子の墓。彼はその四つの墓銘をありありと読み得るばかりでなく、どうかすると妻の園子の啜泣《すすりな》くような声をさえ聞いた。それは彼が自分の乱れた頭脳《あたま》の内部《なか》で聞く声なのか、節子の居る下座敷の方から聞えて来る声なのか、それとも何か他の声なのか、いずれとも彼には言うことが出来なかった。その幻の墓が見えるところまで堕《お》ちて行く前には、彼は恥ずべき自己《おのれ》を一切の知人や親戚《しんせき》の眼から隠すために種々な遁路《にげみち》を考えて見ないでもなかった。知らない人ばかりの遠い島もその一つであった。訪れる人もすくない寂しい寺院《おてら》もその一つであった。しかし、そうした遁路を見つけるには彼は余りに重荷を背負っていた。余りに疲れていた。余りに自己を羞《は》じていた。彼は四つ並んだ幻の墓の方へ否《いや》でも応でも一歩ずつ近づいて行くの外はなかった。
一日は空《むな》しく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸《ガラスど》も、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。日頃《ひごろ》彼の気質として、心を決することは行うことに等しかった。泉太、繁の兄弟の子供の声も最早彼の耳には入らなかった。唯《ただ》、心を決することのみが彼を待っていた。
二十七
節子が何事《なんに》も知らずに二階へ上って来た頃は、日は既に暮れていた。彼女は使の持って来た手紙を叔父に渡した。それを受取って見て、岸本は元園町の友人が復た手紙と一緒にわざわざ迎えの俥《くるま》までも寄《よこ》してくれたことを知った。
友人を見たいと思う心が岸本には動かないではなかった。しかしその心からと言うよりも、むしろ彼は半分器械のように動いた。元園町の手紙を読むと直ぐ楼梯《はしごだん》を降りて、そこそこに外出する支度《したく》した。
暗い門の外には母衣《ほろ》の掛った一台の俥が岸本を待っていた。節子に留守を頼んで置いて、ぶらりと岸本は家を出た。別れを友人に告げに行くつもりでは無いまでも、実際どう成ってしまうか解らないような暗い不安な心持で、彼はその俥に乗った。そして地を踏んで行く車夫の足音や、時々車夫の鳴らす鈴の音や、橋の上へさしかかる度《たび》に特に響ける車輪の音を母衣の内で聞いて行った。大きな都会の夜らしい町々の灯が母衣の硝子《ガラス》に映ったり消えたりした。幾つとなく橋を渡る音もした。彼はめったに行かない町の方へ揺られて行くことを感じた。
元園町の友人は一人の客と一緒に、岸本の知らない家で彼を待受けていた。そこには電燈のかがやきがあった。酒の香気《におい》も座敷に満ちていた。岸本のために膳部《ぜんぶ》までが既に用意して置いてあった。元園町は客を相手に、さかんに談《はな》したり飲んだりしているところであった。
「岸本君、今夜は大いに飲もうじゃ有りませんか」
と元園町が眉《まゆ》をあげて言った。岸本は元園町から差された盃《さかずき》を受ける間もなく、日頃懇意にする客の方からも盃を受けた。
「今夜は岸本さんを一つ酔わせなければいけない」
とその客も言って、復た岸本の方へ別の盃を差した。
「ねえ、君」と元園町は客の方を見ながら、「僕なぞが、どれほど岸本君を思っているか、それを岸本君は知らないでいる」
「まあ、一つ頂きましょう」と客は岸本からの返盃《へんぱい》を催促するように言った。
耳に聞く友人等の笑声、眼に見る華《はな》やかな電燈の灯影《ほかげ》は、それらのものは岸本が心中の悲痛と混合《まざりあ》った。彼は楽しい酒の香気を嗅《か》ぎながら、車の上でそこまで震えてやって来た彼自身のすがたを思って見た。節子と彼と、二人の
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