ゥた。それを読んで、耐えられるだけジッと耐えようとした。又終りの方の足りない部分を書き加えようともした。草稿の中に出て来るのは十八九歳の頃の彼自身である。
「暑中休暇が来て見ると、彼方《あっち》へ飛び是方《こっち》へ飛びしていた小鳥が木の枝へ戻って来た様に、学窓で暮した月日のことが捨吉の胸に集って来た。その一夏をいかに送ろうかと思う心持に混って。彼はこれから帰って行こうとする家の方で、自分のために心配し、自分を引受けていてくれる恩人の家族――田辺の主人、細君、それからお婆さんのことなぞを考えた。田辺の家の近くに下宿|住居《ずまい》する兄の民助のことをも考えた。それらの目上の人達からまだ子供のように思われている間に、彼の内部《なか》に萌《きざ》した若い生命《いのち》の芽は早や筍《たけのこ》のように頭を持上げて来た。自分を責めて、責めて、責め抜いた残酷《むご》たらしさ――沈黙を守ろうと思い立つように成った心の悶《もだ》え――狂《きちがい》じみた真似《まね》――同窓の学友にすら話しもせずにあるその日までの心の戦を自分の目上の人達がどうして知ろう、繁子や玉子というような基督《キリスト》教主義の学校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなどとはどうして知ろう、況《ま》してそういう婦人に附随する一切の空気が悉《ことごと》く幻のように消え果てたとはどうして知ろう、と彼は想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡《すべ》てが心に驚かれることばかりであった。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えると、何時《いつ》の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心持から言いあらわし難い恐怖を感じた……」
岸本は読みつづけた。
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡《およ》そ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に沿うて古い寺や墓地の沢山にある三光町《さんこうちょう》寄の谷間《たにあい》を迂回《うかい》することもあり、あるいは高輪《たかなわ》の通りを真直《まっすぐ》に聖坂《ひじりざか》へと取って、それから遠く下町の方にある田辺の家を指《さ》して降りて行く。その日は伊皿子坂《いさらござか》の下で乗合馬車を待つ積りで、昼飯を済ますと直《す》ぐ寄宿舎を出掛けた。夕立|揚句《あげく》の道は午後の日に乾《かわ》いて一層熱かった。けれども最早《もう》暑中休暇だと思うと、何となく楽しい道を帰って行くような心持になった。何かこう遠い先の方で、自分等を待受けていてくれるものがある。こういう翹望《ぎょうぼう》は、あだかもそれが現在の歓喜であるかの如《ごと》くにも感ぜられた。彼は自分自身の遽《にわ》かな成長を、急に高くなった背を、急に発達した手足を、自分の身に強く感ずるばかりでなく、恩人の家の方で、もしくはその周囲で、自分と同じように揃《そろ》って大きくなって行く若い人達のあることを感じた。就中《わけても》、まだ小娘のように思われていた人達が遽かに姉さんらしく成って来たには驚かされる。そういう人達の中には、大伝馬町《おおてんまちょう》の大勝《だいかつ》の娘、それからへ竃河岸《へっついがし》の樽屋《たるや》の娘なぞを数えることが出来る。大勝とは捨吉が恩人の田辺や兄の民助に取っての主人筋に当り、樽屋の人達はよく田辺の家と往来している。あの樽屋のおかみさんが自慢の娘のまだ初々《ういうい》しい鬘下地《かつらしたじ》なぞに結って踊の師匠の許《もと》へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た。彼はまた、あの大伝馬町辺の奥深い商家で生長した大勝の主人の秘蔵娘の白いきゃしゃな娘らしい手を想像で見ることが出来た……」
読んで行くうちに、年若な自分がそこへあらわれた。何かしら胸を騒がせることがあると、直《す》ぐ頬《ほお》が熱くなって来るような、まだ無垢《むく》で初心《うぶ》な自分がそこへあらわれた。何か遠い先の方に自分等を待受けていてくれるものがあるような心持でもって歩き出したばかりの頃の自分がそこへあらわれた。岸本は自分の少年の姿を自分で見る思いをした。
二十六
「どうも仕方が無い。最早これまでだ」
岸本は独りでそれを言って見た。人から責められるまでもなく、彼は自分から責めようとした。世の中から葬られるまでもなく、自分から葬ろうとした。二十年前、岸本は一度|国府津《こうず》附近の海岸へ行って立ったことがある。暗い相模灘《さがみなだ》の波は彼の足に触れるほど近く押寄せて来たこと
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