ン本は言って、もしもの場合には自分の庶子《しょし》として届けても可いというようなことを節子に話した。
「庶子ですか」
と節子はすこし顔を紅《あか》めた。
不幸な姪《めい》を慰めるために、岸本はそんな将来の戸籍のことなぞまで言出したもののその戸籍面の母親の名は――そこまで押詰めて考えて行くと到底そんなことは行われそうも無かった。これから幾月の間、いかに彼女を保護し、いかに彼女を安全な位置に置き得るであろうか。つくづく彼は節子の思い悩んでいることが、彼女に取っての致命傷にも等しいことを感じた。
岸本は町へ出て行った。節子のために女の血を温め調《ととの》えるという煎《せん》じ薬を買求めて来た。
「もっとお前も自分の身体《からだ》を大切にしなくちゃいけないよ」
と言って、その薬の袋を節子に渡してやった。
夜が来た。岸本は自分の書斎へ上って行って、独《ひと》りで机に対《むか》って見た。あの河岸《かし》に流れ着いた若い女の死体のことなぞが妙に意地悪く彼の胸に浮んで来た。
「節ちゃんはああいう人だから、ひょっとすると死ぬかも知れない」
この考えほど岸本の心を暗くするものは無かった。妻の園子を失った後二度と同じような結婚生活を繰返すまいと思っていた彼は、出来ることなら全く新規な生涯を始めたいと願っていた彼は、独身そのものを異性に対する一種の復讎《ふくしゅう》とまで考えていた彼は、日頃|煩《わずら》わしく思う女のために――しかも一人の小さな姪のために、こうした暗いところへ落ちて行く自分の運命を実に心外にも腹立しくも思った。
思いもよらない悲しい思想《かんがえ》があだかも閃光《せんこう》のように岸本の頭脳《あたま》の内部《なか》を通過ぎた。彼は我と我身を殺すことによって、犯した罪を謝し、後事を節子の両親にでも托《たく》そうかと考えるように成った。近い血族の結婚が法律の禁ずるところであるばかりで無く、もしもこうした自分の行いが猶《なお》かつそれに触れるようなものであるならば、彼は進んで処罰を受けたいとさえ考えた。何故というに、彼は世の多くの罪人が、無慈悲な社会の嘲笑《ちょうしょう》の石に打たるるよりも、むしろ冷やかに厳粛《おごそか》な法律の鞭《むち》を甘受しようとする、その傷《いた》ましい心持に同感することが出来たからである。部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とも》っていた。その油の尽きかけて来た燈火《ともしび》は夜の深いことを告げた。岸本は自分の寝床を壁に近く敷いて、その上に独りで坐って見た。一晩寝て起きて見たら、またどうかいう日が来るか、と不図《ふと》思い直した。考え疲れて床の上に腕組みしていた岸本は倒れるように深い眠の底へ落ちて行った。
二十五
「父さん」
繁は岸本の枕頭《まくらもと》へ来て、子供らしい声で父を呼起そうとした。岸本は何時間眠ったかをもよく知らなかった。子供が婆やと一緒に二階へ上って来た頃は、眼は覚《さ》めていたが、いくら寝ても寝ても寝足りないように疲れていた。彼は子供の呼声を聞いて、寝床を離れる気になった。
「繁ちゃん、父さんは独りじゃ起きられない。お前も一つ手伝っておくれ。父さんの頭を持上げて見ておくれ」
と岸本に言われて、繁は喜びながら両手を父の頭の下に差入れた。
「坊ちゃん、父さんを起してお進《あ》げなさい――ほんとに坊ちゃんは力があるから」
と婆やにまで言われて、繁は倒れた木の幹でも起すように父の体躯《からだ》を背後《うしろ》の方から支《ささ》えた。
「どっこいしょ」
と繁が力を入れて言った。岸本はこの幼少《ちいさ》な子供の力を借りて漸《ようや》くのことで身を起した。
「旦那《だんな》さん、もう十一時でございますよ」と婆やはすこし呆《あき》れたように岸本の方を見て言った。
「や、どうも難有《ありがと》う。繁ちゃんの御蔭《おかげ》で漸《ようや》く起きられた」
こう言いながら、岸本は悪い夢にでも襲われたように自分の周囲を見廻した。
太陽は昨日と同じように照っていた。町の響は昨日と同じように部屋の障子に伝わって来ていた。眼が覚めて見ると昨日と同じ心持が岸本には続いていた。昨日より吉《い》いという日は別に来なかった。熱い茶を啜《すす》った後のいくらかハッキリとした心持で彼は自分の机に対って見た。
最近に筆を執り始めた草稿が岸本の机の上に置いてあった。それは自伝の一部とも言うべきものであった。彼の少年時代から青年時代に入ろうとする頃のことが書きかけてあった。恐らく自分に取ってはこれが筆の執り納めであるかも知れない、そんな心持が乱れた彼の胸の中を支配するように成った。彼は机の前に静坐して、残すつもりもなくこの世に残して置いて行こうとする自分の書きかけの文章を読んで
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