コさるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
 元園町は盃を手にしてさも心地《ここち》よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独《ひと》りで居るのは、今だに僕には疑問です」
 岸本は人知れず溜息《ためいき》を吐《つ》いた。

        二十

「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱《しか》るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番《おはこ》が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
 岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛《くつろ》いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家を出た。色彩も、音曲《おんぎょく》も、楽しい女の笑い声も、すべて人を享楽させるためにあるような空気の中から離れて行った時は、余計に岸本の心は沈んでしまった。
 岸本は家をさして歩いた。大川端《おおかわばた》まで出ると酒も醒《さ》めた。身に浸《し》みるような冷い河風の刺激を感じながら、少年の時分に恩人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸《かし》を通って両国の橋の畔《ほとり》にかかった。名高い往昔《むかし》の船宿の名残《なご》りを看板だけに留《とど》めている家の側を過ぎて砂揚場《すなあげば》のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本はその砂揚場の近くで遭遇《でっくわ》した出来事を思い出した。妊娠した若い女の死体がその辺へ流れ着いたことを思出した。曾《かつ》て検屍《けんし》の後の湿った砂なぞを眺めた彼自身にも勝《まさ》って、一層よく岸本はその水辺の悲劇の意味を読むことが出来た。その心持から、彼は言いあらわし難い恐怖を誘われた。
 急いで岸本は橋を渡った。すたすた家の方へ帰って行った。門松のある中に遊ぼうとするような娘子供は狭い町中で追羽子《おいばね》の音をさせて、楽しい一週の終らしい午後の四時頃の時を送っていた。丁度家には根岸の嫂《あによめ》が訪ねて来て岸本の帰りを待っていた。
「オオ、捨さんか」
 と嫂は岸本の名を呼んで言った。この嫂は岸本が一番|年長《うえ》の兄の連合《つれあい》にあたって、節子から言えば学校時代に世話に成った伯母さんであった。「女の御年始という日でもありませんけれど、宅でも台湾の方ですし、代理がてら今日は一寸《ちょっと》伺いました」とも言った。
 節子は正月らしい着物に着更《きか》えて根岸の伯母を款待《もてな》していた。何となく荒れて見える節子の顔の肌《はだ》も、岸本だけにはそれが早《は》や感じられた。彼はこの女らしく細《こまか》いものに気のつく嫂から、三人も子供をもったことのある人の観察から、なるべく節子を避けさせたかった。
「節ちゃん、そんなとこに坐っていなくても可《い》いから、お茶でも入れ替えて進《あ》げて下さい」
 岸本は節子を庇護《かば》うように言った。長火鉢《ながひばち》を間に置いて岸本と対《むか》い合った嫂の視線はまた、娘のさかりらしく成人した節子の方へよく向いた。この嫂は亡《な》くなった岸本の母親やまだ青年時代の岸本と一緒に、夫の留守居をして暮した骨の折れた月日のことを忘れかねるという風で、何かにつけて若いものを教え誨《さと》すような口調で節子に話しかけた。遠い外国の方で楽しい家庭をつくっているという輝子の噂《うわさ》も出た。
「ここの叔父さんなればこそ、あれまでに御世話が出来たんですよ。この御恩を忘れるようなことじゃ仕方がありません、いくら輝さんが今楽だからと言って――」と嫂は好い婿を取らせて子供まである自分の娘の愛子に、輝子の出世を思い比べるような調子で言って、やがて節子の方を見て、「節ちゃんも、好い叔父さんをお持ちなすって、ほんとにお仕合せですよ」
 それを聞いている岸本は冷い汗の流れる思をした。

        二十一

 嫂は長い年月の間の留守居も辛抱|甲斐《がい》があって漸《ようや》く自分の得意な時代に廻って来たことや、台湾にある民助兄の噂や、自分の娘の愛子の自慢話や、それから常陸《ひたち》の方に行っている岸本が一番末の女の児の君子の話なぞを残して根岸の方へ帰って行った。岸本から云えば
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