テ《めい》の愛子の夫にあたる人の郷里は常陸の海岸の方にあった。その縁故から岸本はある漁村の乳母《うば》の家に君子を托《たく》して養って貰《もら》うことにしてあった。
「捨さんも、そうして何時《いつ》までも独りでいる訳にも行きますまい。どうして岸本さんではお嫁さんをお迎えに成らないんでしょうッて、それを聞かれる度《たび》に私まで返事に困ってしまう」
根岸の嫂はこんな言葉をも残して置いて行った。
こうした親類の女の客があった後では、岸本は節子と顔を見合せることを余計に苦しく思った。それは唯の男と女とが見合せる顔では無くて、叔父と姪との見合せる顔であった。岸本は節子の顔にあらわれる暗い影をありありと読むことが出来た。その暗い影は、「貴様は実に怪《け》しからん男だ」という兄の義雄の怒った声を心の底の方で聞くにも勝《まさ》って、もっともっと強い力で岸本の心に迫った。快活な姉の輝子とも違い、平素《ふだん》から節子は口数も少い方の娘であるが、その節子の黙し勝ちに憂い沈んだ様子は彼女の無言の恐怖《おそれ》と悲哀《かなしみ》とを、どうかすると彼女の叔父に対する強い憎《にくし》みをさえ語った。
「叔父さん、私はどうして下さいます――」
この声を岸本は姪の顔にあらわれる暗い影から読んだ。彼は何よりも先《ま》ず節子の鞭《むち》を受けた。一番多く彼女の苦んでいる様子から責められた。
急に二人の子供の喧嘩《けんか》する声を聞きつけた時は、岸本は二階の方の自分の部屋にいた。彼は急いで楼梯《はしごだん》を馳《か》け降りた。
見ると二人の子供は、引留めようとする節子の言うことも聞入れないで争っていた。兄は弟を打《ぶ》った。弟も兄を打った。
「何をするんだ。何を喧嘩するんだ――馬鹿」
と岸本が言った。泉太も、繁も、一緒に声を揚げて泣出した。
「繁ちゃんが兄さんの凧《たこ》を破いたッて、それから喧嘩に成ったんですよ」と節子は繁を制《おさ》えながら言った。
「泉ちゃんが打《ぶ》った――」と繁は父に言付けるようにして泣いた。
兄の子供は物を言おうとしても言えないという風で、口惜しそうに口唇《くちびる》を噛《か》んで、もう一度弟をめがけて拳《こぶし》を振上げようとした。
「さあ、止《よ》した。止した」と岸本が叱るように言った。
「もうお止しなさいね。兄さんも、もうお止しなさいね」と節子も言葉を添えた。
「まあ、坊ちゃん方は何を喧嘩なすったんです」
と言って、婆やがそこへ飛んで来た頃は、まだ二人の子供は泣きじゃくりを吐《つ》いていた。
岸本は胸を踊らせながら自分の部屋へ引返して行った。硝子戸《ガラスど》に近く行って日暮時の町を眺《なが》めた。河岸の砂揚場のところを通って誘われて来た心持が岸本の胸を往来し始めた。彼はあの水辺《みずべ》の悲劇を節子に結びつけて考えることすら恐ろしく思った。冷い、かすかな戦慄《みぶるい》は人知れず彼の身を伝うように流れた。
二十二
七日ばかりも岸本はろくろく眠らなかった。独《ひと》りで心配した。昼の食事の時だけは彼は家のものと一緒でなしに、独りで膳《ぜん》に対《むか》うことが多かったが、そういう時には極《きま》りで節子が膳の側へ来て坐った。彼女はめったに叔父の給仕の役を婆やに任せなかった。それを自分でした。そして俯向《うつむ》き勝ちに帯の間へ手を差入れ、叔父と眼を見合せることを避けよう避けようとしているような場合でも、何時でも彼女の膝《ひざ》は叔父の方へ向いていた。晩《おそ》かれ早かれ破裂を見ないでは止《や》まないような前途の不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
と楼梯《はしごだん》の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度《たび》に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起《おこ》って来た。
丁度町でも家の内でもそろそろ燈火《あかり》の点《つ》く頃であった。岸本は階下《した》へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚《はばか》るような落魄《らくはく》した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
岸本はこの珍客が火点《ひとも》し頃《ごろ》を選んでこっそりと訪《たず》ねて来た意味を直《す》ぐに読んだ。傷《いた》ましい旅窶《たびやつ》れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌《おもばせ》で。この人が亡くなった甥《おい》の太一の父親であった。
妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑《おもわく》を憚る
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