ス。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄《ほのめ》かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞《は》じた。
「先生、お熱いのが参りました」
 女中の一人が勧めてくれるのを盃《さかずき》に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時《いつ》の間にか彼の心はずっと以前に就《つ》いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲《すまい》の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於《お》いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩《たた》いたという先生の心の懊悩《おうのう》を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前《めのまえ》にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
 と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物《なんに》も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露《つゆ》が冷《さ》めてしまいます」
「私は先刻《さっき》からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度《たんび》に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼《あお》い顔をしていらっしゃることがある……」
 こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩《や》せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟《えり》を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓《ひいき》にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早《もう》若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていらしって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
 そう言いながら女中は自分の膝《ひざ》の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
 と岸本は言出した。すこしの酒が直《す》ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時《いつも》のように酔わなかった。

        十九

 生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄《かみがたうた》なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線《しゃみせん》の調子に合せて歌った。

  「心づくしのナ
  この年月《としつき》を、
  いつか思ひの
  はるゝやと、
  心ひとつに
  あきらめん――
  よしや世の中」

 いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄《うた》の文句が、熟した李《すもも》のように色の褪《さ》め変った女の口唇《くちびる》から流れて来た。

  「みじか夜の
  ゆめはあやなし、
  そのうつり香の
  悪《に》くて手折《たを》ろか
  ぬしなきはなを、
  何のさら/\/\、
  更に恋は曲者《くせもの》」

 元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩《としかさ》の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実《ほんと》に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌《おんなぎら》いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯《ただ》眺《なが》めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時《いつ》までも先生にそうしていて頂《いただ》きたいと思います」と復《ま》た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓《ごひいき》にしていらしって
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