ヲなかった。人が亡《な》くなった後の屋根の下を気味悪く思って、よく引越をするもののあるのも笑ってしまえなかった。
 岸本は仏壇の前へ行って立って見た。燈明のひかりにかがやき映った金色の位牌《いはい》には、次のような文字が読まれた。
  「宝珠院妙心|大姉《だいし》」

        十一

「汝《なんじ》、わが悲哀《かなしみ》よ、猶《なお》賢く静かにあれ」
 この文句を口吟《くちずさ》んで見て、岸本は青い紙の蓋《かさ》のかかった洋燈《ランプ》で自分の書斎を明るくした。「君の家はまだランプかい。随分旧弊だねえ」と泉太の小学校の友達にまで笑われる程、岸本の家では洋燈を使っていた。彼はその好きな色の燈火《あかり》のかげで自分で自分の心を励まそうとした。あの赤熱《しゃくねつ》の色に燃えてしかも凍り果てる北極の太陽に自己《おのれ》の心胸《こころ》を譬《たと》え歌った仏蘭西《フランス》の詩人ですら、決して唯《ただ》梟《ふくろう》のように眼ばかり光らせて孤独と悲痛の底に震えてはいなかったことを想像し、その人の残した意味深い歌の文句を繰返して見て、自分を励まそうとした。
 黄ばんだ洋燈の光は住慣れた部屋の壁の上に、独《ひと》りで静坐することを楽みに思う岸本の影法師を大きく写して見せていた。岸本はその影法師を自分の友達とも呼んで見たいような心持でもって、長く生きた昔の独身生活を送った人達のことを思い、世を避けながらも猶かつ養生することを忘れずに芋《いも》を食って一切の病気を治《なお》したというあの「つれづれ草」の中にある坊さんのことを思い、出来ることならこのまま子供を連れて自分の行けるところまで行って見たいと願った。
「旦那《だんな》さん、お粂《くめ》ちゃんの父さんが参りましたよ」
 と婆やが楼梯《はしごだん》の下のところへ来て呼んだ。お粂ちゃんとは、よく岸本の家へ遊びに来る近所の針医の娘の名だ。
 頼んで置いた針医が小さな手箱を提《さ》げて楼梯を上って来た。過ぐる年の寒さから岸本は腰の疼痛《いたみ》を引出されて、それが持病にでも成ることを恐れていた。自分の心を救おうとするには、彼は先《ま》ず自分の身《からだ》から救ってかかる必要を感じていた。
「あんまり坐り過ぎている故《せい》かも知れませんが、私の腰は腐ってしまいそうです」
 こんなことをその針医に言って、岸本は家のものの手も借りずに書斎の次の間から寝道具なぞを取出して来た。それを部屋の片隅《かたすみ》によせて壁に近く敷いた。
「やっぱり疝《せん》の気味でごわしょう。こうした陽気では冷込みますからナ」と言いながら針医は手にした針術《しんじゅつ》の道具を持って岸本の側へ寄った。
 ぷんとしたアルコオルの香が岸本の鼻へ来た。背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルで拭《ぬぐ》われた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。やがて針医の揉込《もみこ》む針は頸《くび》の真中あたりへ入り、肩へ入り、背骨の両側へも入った。
「痛《いた》」
 思わず岸本は声をあげて叫ぶこともあった。しかし一番長そうに思われる細い金針《きんばり》が腰骨の両側あたりへ深く入って、ズキズキと病める部分に触れて行った時は、睡気《ねむけ》を催すほどの快感がその針の微《かす》かな震動から伝わって来た。彼は針医に頼んで、思うさま腰の疼痛《いたみ》を打たせた。
「自分はもう駄目かしら」
 針医の行った後で、岸本は独りで言って見た。手術後の楽しく激しい疲労から、長いこと彼は死んだように壁の側に横になっていた。部屋の雨戸の外へは寒い雨の来る音がした。

        十二

 年も暮れて行った。節子は姉と二人でなしに、彼女一人の手に叔父の家の世話を任せられたことを迷惑とはしていなかった。彼女は自分一人に任せられなければ、何事も愉快に行うことの出来ないような気むずかしいところを有《も》っていた。その意味から言えば、彼女は意のままに、快適に振舞った。
 しかしそれは婆やなぞと一緒に働く時の節子で、岸本の眼には何となく楽まない別の節子が見えて来た。姉がまだ一緒にいた夏の頃、節子は黄色く咲いた薔薇《ばら》の花を流許《ながしもと》の棚の上に罎《びん》に挿《さ》して置いて、勝手を手伝いながらでも独《ひと》りで眺《なが》め楽むという風の娘であった。「泉ちゃん、好いものを嗅《か》がして進《あ》げましょうか」と言いながらその花を子供の鼻の先へ持って行って見せ、「ああ好い香気《におい》だ」と泉太が眼を細くすると、「生意気ねえ」と快活な調子で言う姉の側に立っていて、「泉ちゃんだって、好いものは好いわねえ」と娘らしい歯を出して笑うのが節子であった。節子姉妹は岸本の知らない西洋草花の名なぞをよく知っていたが、殊《こと》に妹の方は精《
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