モウん」
 と楼梯《はしごだん》のところで呼ぶ声がして、泉太が階下《した》から上って来た。
「繁ちゃんは?」と岸本が訊《き》いた。
 泉太は気のない返事をして、何か強請《ねだ》りたそうな容子《ようす》をしている。
「父さん、蜜豆《みつまめ》――」
「蜜豆なんか止《よ》せ」
「どうして――」
「何か、何かッて、お前達は食べてばかりいるんだね。温順《おとな》しくして遊んでいると、父さんがまた節ちゃんに頼んで、御褒美《ごほうび》を出して貰《もら》ってやるぜ」
 泉太は弟のように無理にも自分の言出したことを通そうとする方ではなかった。それだけ気の弱い性質が、岸本にはいじらしく思われた。妻が形見として残して置いて行ったこの泉太はどういう時代に生れた子供であったか、それを辿《たど》って見るほど岸本に取って夫婦の間だけの小さな歴史を痛切に想い起させるものはなかった。
 町中に続いた家々の見える硝子戸の方へ行って遊んでいた泉太はやがて復た階下《した》へ降りて行った。岸本は六年の間の仕事場であった自分の書斎を眺《なが》め廻した。曾《かつ》ては彼の胸の血潮を湧《わ》き立たせるようにした幾多の愛読書が、さながら欠《あく》びをする静物のように、一ぱいに塵埃《ほこり》の溜った書棚《しょだな》の中に並んでいた。その時岸本はある舞台の上で見た近代劇の年老いた主人公をふと胸に浮べた。その主人公の許《ところ》へ洋琴《ピアノ》を弾《ひ》いて聞かせるだけの役目で雇われて通って来る若い娘を胸に浮べた。生気のあふれた娘の指先から流れて来るメロディを聞こうが為めには、劇の主人公は毎月金を払ったのだ。そして老年の悲哀と寂寞《せきばく》とを慰めようとしたのだ。岸本は劇の主人公に自分を比べて見た。時には静かな三味線《しゃみせん》の音でも聞くだけのことを心やりとして酒のある水辺《みずべ》の座敷へ呼んで見る若草のような人達や、それから若い時代の娘の心で自分の家に来ているというだけでも慰めになる節子をあの劇中の娘に比べて見た。三年の独身は、漸《ようや》く四十の声を聞いたばかりで早老人の心を味わせた。それを考えた時は、岸本は忌々《いまいま》しく思った。

        十

 屋外《そと》の方で聞える子供の泣き声は岸本の沈思を破った。妻を失った後の岸本は、雛鳥《ひなどり》のために餌《えさ》を探す雄鶏《おんどり》であるばかりでなく、同時にまたあらゆる危害から幼いものを護ろうとして一寸《ちょっと》した物音にも羽翅《はがい》をひろげようとする母鶏の役目までも一身に引受けねばならなかった。子供の泣き声がすると、彼は殆《ほとん》ど本能的に自分の座を起《た》った。部屋の外にある縁側に出て硝子戸を開けて見た。それから階下へも一寸見廻りに降りて行った。
「子供が喧嘩《けんか》しやしないか」
 と彼は節子や婆やに注意するように言った。
「あれは他《よそ》の家の子供です」
 節子は勝手口に近い小部屋の鼠不入《ねずみいらず》の前に立っていて、それを答えた。何となく彼女は蒼《あお》ざめた顔付をしていた。
「どうかしたかね」と岸本は叔父らしい調子で尋ねた。
「なんですか気味の悪いことが有りました」
 岸本は節子が学問した娘のようでも無いことを言出したので、噴飯《ふきだ》そうとした。節子に言わせると、彼女が仏壇を片付けに行って、勝手の方へ物を持運ぶ途中で気がついて見ると、彼女の掌《て》にはべっとり血が着いていた。それを流許《ながしもと》で洗い落したところだ。こう叔父に話し聞かせた。
「そんな馬鹿な――」
「でも、婆やまでちゃんと見たんですもの」
「そんな事が有りようが無いじゃないか――仏壇を片付けていたら、手へ血が附着《くっつ》いたなんて」
「私も変に思いましたからね、鼠かなんかの故《せい》じゃないかと思って、婆やと二人で仏さまの下まですっかり調べて見たんですけれど……何物《なんに》も出て来やしません……」
「そんなことを気にするものじゃないよ。原因《もと》が分って見ると、きっとツマラないことなんだよ」
「仏さまへは今、お燈明をあげました」
 節子はこの家の内に起って来る何事《なに》かの前兆ででもあるかのように、それを言った。
「お前にも似合わないじゃないか」岸本は叱《しか》って見せた。「輝が居た時分にも、ホラ、一度妙な事があったぜ。姉さんの枕許《まくらもと》へ国の方に居る祖母《おばあ》さんが出て来たなんて……あの時はお前まで蒼《あお》くなっちまった。ほんとに、お前達はときどき叔父さんをびっくりさせる」
 日の短い時で、階下の部屋はそろそろ薄暗くなりかけていた。岸本は節子の側を離れて家の内をあちこちと歩いて見たが、しまいには気の弱いものに有りがちな一種の幻覚として年若な姪《めい》の言ったことを一概に笑ってしま
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