ュ請《ねだ》るようにする子供の声をこの下座敷でよく聞いたばかりでなく、どうかすると机は覆《ひっくりか》えされて舟の代りになり、団扇掛《うちわかけ》に長い尺度《ものさし》の結び着けたのが櫓《ろ》の代りになり、蒲団《ふとん》が舟の中の蓆莚《ござ》になり、畳の上は小さな船頭の舟|漕《こ》ぐ場所となって、塗り更《か》えたばかりの床の間の壁の上まで子供の悪戯《いたずら》した波の図なぞですっかり汚《よご》されてしまったが。
暗い仏壇には二つの位牌《いはい》が金色に光っていた。その一つは子供等の母親ので、もう一つは三人の姉達のだ。しかしその位牌の周囲《まわり》には早や塵埃《ほこり》が溜《たま》るようになった。岸本が築いた四つの墓――殊《こと》に妻の園子の墓――三年近くも彼が見つめて来たのは、その妻の墓ではあったが、しかし彼の足は実際の墓参りからは次第に遠くなった。
「叔母さんのことも大分忘れて来た――」
岸本はよくそれを節子に言って嘆息した。
丁度この下座敷の直《す》ぐ階上《うえ》に、硝子戸《ガラスど》を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった。階下《した》に居て二階の話声はそれほどよく聞えないまでも、二階に居て階下の話声は――殊に婆やの高い声なぞは手に取るように聞える。そこへ昇って行って自分の机の前に静坐して見ると、岸本の心は絶えず階下へ行き、子供の方へ行った。彼はまだ年の若い節子を助けて、二階に居ながらでも子供の監督を忘れることが出来なかった。家のものは皆|屋外《そと》へ遊びに出し、門の戸は閉め、錠は掛けて置いて、たった独《ひと》りで二階に横に成って見るような、そうした心持には最早《もう》成れなかった。
岸本は好きな煙草《たばこ》を取出した。それを燻《ふか》し燻し園子との同棲《どうせい》の月日のことを考えて見た。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
そう言って、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残っていた。
岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛った。園子は豊かな家に生れた娘のようでもなく、艱難《かんなん》にもよく耐えられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有《も》っていたが、しかし激しい嫉妬《しっと》を夫に味《あじわ》わせるような極く不用意なものを一緒にもって岸本の許《もと》へ嫁《かたづ》いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸《ようや》く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎《ふくしゅう》を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷《きずつ》けた。
九
書斎の壁に対《むか》いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
こんな偽りのない溜息《ためいき》が、女のさかりを思わせるような年頃で亡《な》くなった園子を惜しみ哀《かな》しむ心と一緒になって、岸本には起きて来たのであった。妻を失った当時、岸本はもう二度と同じような結婚生活を繰返すまいと考えた。両性の相剋《あいこく》するような家庭は彼を懲りさせた。彼は妻が残して置いて行った家庭をそのまま別の意味のものに変えようとした。出来ることなら、全く新規な生涯を始めたいと思った。十二年、人に連添って、七人の子を育てれば、よしその中で欠けたものが出来たにしても、人間としての奉公は相当に勤めて来たとさえ思った。彼は重荷を卸したような心持でもって、青い翡翠《ひすい》の珠《たま》のかんざしなどに残る妻の髪の香をなつかしみたかった。妻の肌身《はだみ》につけた形見の着物を寝衣《ねまき》になりとして着て見るような心持でもって、沈黙の形でよくあらわれた夫婦の間の苦しい争いを思出したかった。
岸本の眼前《めのまえ》には、石灰と粘土とで明るく深味のある淡黄色に塗り変えた、堅牢《けんろう》で簡素な感じのする壁があった。彼は早《はや》三年近くもその自分の部屋の壁を見つめてしまったことに気がついた。そしてその三年の終の方に出来た自分の労作の多くが、いずれも「退屈」の産物であることを想って見た。
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