フように岸本の胸を通過ぎた。
「一切は園子一人の死から起ったことだ」
 岸本は腹《おなか》の中でそれを言って見て、何となくがらんとした天井の下を眺め廻した。

        七

 母親なしにもどうにかこうにか成長して行く幼いものに就《つ》いての話は年少《としした》の子供のことから年長《としうえ》の子供のことに移って、岸本は節子や婆やを相手に兄の方の泉太の噂《うわさ》をしているところへ、丁度その泉太が屋外《そと》から入って来た。
「繁ちゃんは?」
 いきなり泉太は庭口の障子の外からそれを訊《き》いた。二人一緒に遊んでいれば終《しまい》にはよく泣いたり泣かせられたりしながら、泉太が屋外からでも入って来ると、誰よりも先に弟を探した。
「泉ちゃん、皆で今あなたの噂をしていたところですよ」と婆やが言った。「そんなに屋外を飛んで歩いて寒かありませんか」
「あんな紅《あか》い頬《ほっ》ぺたをして」と節子も屋外の空気に刺激されて耳朶《みみたぶ》まで紅くして帰って来たような子供の方を見て言った。
 泉太の癖として、この子供は誰にでも行って取付いた。婆やの方へ行って若い時は百姓の仕事をしたこともあるという巌畳《がんじょう》な身体へも取付けば、そこに居るか居ないか分らないほど静かな針医の娘を側に坐らせた節子の方へも行って取付いた。
「泉ちゃんのようにそう人に取付くものじゃないよ」
 そういう岸本の背後《うしろ》へも来て、泉太は父親の首筋に齧《かじ》りついた。
「でも、泉ちゃんも大きく成ったねえ」と岸本が言った。「毎日見てる子供の大きくなるのは、それほど目立たないようなものだが」
「着物がもうあんなに短くなりました――」と節子も言葉を添える。
「泉ちゃんの顔を見てると、俺《おれ》はそう思うよ。よくそれでもこれまでに大きくなったものだと思うよ」と復《ま》た岸本が言った。「幼少《ちいさ》い時は弱い児だったからねえ。あの巾着頭《きんちゃくあたま》が何よりの証拠サ。この児の姉さん達の方がずっと壮健《じょうぶ》そうだった。ところが姉さん達は死んでしまって、育つかしらんと思った泉ちゃんの方がこんなに成人《しとな》って来た――分らないものだね」
「黙っといで。黙っといで」と泉太は父の言葉を遮《さえぎ》るようにした。「節ちゃん、好いことがある。お巡査《まわり》さんと兵隊さんと何方《どっち》が強い?」
 こういう子供の問は節子を弱らせるばかりでなく、夏まで一緒に居た輝子をもよく弱らせたものだ。
「何方《どっち》も」と節子は姉が答えたと同じように子供に答えた。
「学校の先生と兵隊さんと何方が強い?」
「何方も」
 と復《ま》た節子は答えて、そろそろ智識の明けかかって来たような子供の瞳《ひとみ》に見入っていた。
 岸本は思出したように、
「こうして経《た》って見れば造作《ぞうさ》もないようなものだがね、三年の子守《こもり》はなかなかえらかった。これまでにするのが容易じゃなかった。叔母《おば》さんの亡《な》くなった時は、なにしろ一番|年長《うえ》の泉ちゃんが六歳《むっつ》にしか成らないんだからね。熱い夏の頃ではあり、汗疹《あせも》のようなものが一人に出来ると、そいつが他の子供にまで伝染《うつ》っちゃって――節ちゃんはあの時分のことをよく知らないだろうが、六歳を頭《かしら》に四人の子供に泣出された時は、一寸《ちょっと》手の着けようが無かったね。どうかすると、子供に熱が出る。夜中にお医者さまの家を叩《たた》き起しに行ったこともある。あの時分は、叔父さんもろくろく寝なかった……」
「そうでしたろうね」と節子はそれを眼で言わせた。
「あの時分から見ると、余程《よっぽど》これでも楽に成った方だよ。もう少しの辛抱だろうと思うね」
「繁ちゃんが学校へ行くようにでも成ればねえ」と節子は婆やの方を見て言った。
「どうかまあ、宜《よろ》しくお願い申します」
 こう岸本は言って、節子と婆やの前に手をついてお辞儀した。

        八

 下座敷には箪笥《たんす》も、茶戸棚《ちゃとだな》も、長火鉢も、子供等の母親が生きていた日と殆《ほと》んど同じように置いてあった。岸本が初めて園子と世帯《しょたい》を持った頃からある記念の八角形の古い柱時計も同じ位置に掛って、真鍮《しんちゅう》の振子が同じように動いていた。園子の時代と変っているのは壁の色ぐらいのものであった。一面に子供のいたずら書きした煤《すす》けた壁が、淡黄色の明るい壁と塗りかえられたぐらいのものであった。その夏岸本は節子に、節子の姉に、泉太に、繁まで例の河岸《かし》へ誘って行って、そこから家中のものを小舟に乗せ、船宿の子息《むすこ》をも連れて一緒に水の上へ出たことがあった。それからというものは、「父さん、お舟――父さん、お舟――」と
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