ュわ》しくもあり、又た天性花を愛するような、物静かな、うち沈んだところを有《も》っていた。「お前達はよくそれでもそんな名前を知ってる」と岸本が感心したように言った時、「花の名ぐらい知らなくって――ねえ、節ちゃん」と姉の方が言えば、「叔父さん、これ御覧なさい、甘い椿《つばき》のような香気がするでしょう」と言ってチュウリップの咲いた鉢《はち》を持って来て見せたのも節子であった。これほど節子はまだ初々《ういうい》しかった。学窓を離れて来たばかりのような処女《おとめ》らしさがあった。その節子が年の暮あたりには何となく楽まないで、じっと考え込むような娘になった。
 岸本の妻が残して置いて行った着物は、あらかたは生家《さと》の方へ返し、形見として郷里の姉へも分け、根岸の嫂《あによめ》にも姪《めい》にも分け、山の方にある知人へも分け、生前園子が懇意にしたような人達のところへは大抵分けて配ってしまって、岸本の手許には僅《わず》かしか残らないように成った。「子供がいろいろお世話に成りました」それを岸本が言って、下座敷に置いてある箪笥の抽筐《ひきだし》の底から園子の残したものを節子姉妹に分けてくれたこともあった。「節ちゃん、いらっしゃいッて」とその時、輝子が妹を呼んだ声はまだ岸本の耳についていた。子供の世話に成る人達に亡くなった母親の形見を分けることは、岸本に取って決して惜しく思われなかった。
 復《ま》た岸本は箪笥の前に立って見た。平素《ふだん》は節子任せにしてある抽筐から彼女の自由にも成らないものを取出して見た。
「叔母さんのお形見も、皆に遣《や》るうちに段々少くなっちゃった」
 と岸本は半分|独語《ひとりごと》のように言って、思い沈んだ節子を慰めるために、取出したものを彼女の前に置いた。
「こんな長襦袢《ながじゅばん》が出て来た」
 と復た岸本は言って見て、娘の悦《よろこ》びそうな女らしい模様のついたやつを節子に分けた。それを見てさえ彼女は楽まなかった。

        十三

 ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。
「私の様子は、叔父さんには最早《もう》よくお解《わか》りでしょう」
 新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳《とし》を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃《そろ》って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下《した》には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。
 避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹《こた》えた。それを聞くと、岸本は悄《しお》れた姪《めい》の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥《なだ》めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何《いかん》ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯《はしごだん》を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。
 世のならわしにも従わず、親戚《しんせき》の勧めも容《い》れず、友人の忠告にも耳を傾けず、自然に逆らってまでも自分勝手の道を歩いて行こうとした頑固《かたくな》な岸本は、こうした陥穽《おとしあな》のようなところへ堕《お》ちて行った。自分は犯すつもりもなくこんな罪を犯したと言って見たところで、それが彼には何の弁解《いいわけ》にも成らなかった。自分は婦徳を重んじ正義を愛するの念に於《おい》て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄《かみがたうた》の合《あい》の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何《いか》なる場合にも自分は傍観者であって、曾《かつ》てそれらの刺戟《しげき》に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足《た》しにも成らないのみか、あべこべに洒脱《しゃだつ》をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気《しゃれけ》があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰《もら》うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳《あたま》の内部《なか》ですら聞いた。
 しばらく岸本は何事《なんに》も考えられなかった。
 部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とぼ》っていた。がっしりとした四角な火鉢《ひばち》にかけてある鉄瓶《てつびん》の湯も沸いていた。岸本は茶
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