さとが残った。
 岸本がこの寺院《おてら》を出て、ポン・ナフの石橋の畔《たもと》へかかった頃は、まだ空はいくらか明るかった。ヴィエンヌ河の両岸にあるものは皆水に映っていた。彼は牧野と二人でのリモオジュの滞在も最早《もう》僅に成って来たことを思った。二度とこうした仏蘭西の田舎《いなか》に来て好きな寺院に腰掛ける時があろうとも思われなかった。バビロン新道の宿を指《さ》して歩いて行く途《みち》すがらも、彼はこの田舎の都会にある他の寺院にサン・テチエンヌを思い比べて見た。澱《よど》み沈んだ羅馬旧教の空気の中にあって、どれ程の「人」の努力があの古いサン・テチエンヌの寺院を活《い》かしているかを想像して見た。

        百五

 リモオジュには岸本は葡萄《ぶどう》の熟するからやがて酒に醸《かも》されるまで居た。マルヌの戦いも敵軍の総退却で終り、巴里《パリ》包囲の危険も去り、この町へ避難して来た人達も最早大抵帰って行った。戦時の不自由は田舎に居るも巴里に行くも牧野や岸本に取って殆《ほとん》ど変りが無かった。宿の主婦《かみさん》は姪《めい》を連れて復《ま》た巴里の方へ帰ろうとしていた。牧野も同時にこの町を引揚げようとしていた。
「僕は一歩《ひとあし》先に出ます。ここまで来た序《ついで》にボルドオの方を廻って見て来ます。君等は巴里の方で待っていてくれたまえ」
 この話を岸本は牧野にした。
 早や毎朝のように霜が来た。暖炉には薪《まき》を焚《た》くように成った。彼はこの田舎で刺激された心をもって、もう一度巴里の空気の中へ行こうとしていた。旅の序《ついで》に、日頃《ひごろ》想像する南方の仏蘭西をも見るという楽みを胸に描いていた。そこでボルドオを指して出掛けた。開戦当時のような混雑には遭遇しないまでも、改札口のところに立つ警戒の兵士に警察で裏書して貰《もら》って来た戦時の通行券を示すような手数は要《かか》った。
 リモオジュの停車場《ステーション》まで送って来た牧野や少年のエドワアルと手を分ってからは、彼は独《ひと》りの旅となった。やがて彼の乗った汽車はリモオジュの町はずれを通過ぎた。二月|半《なかば》の滞在は短かったとは言え、彼は可成楽しい気の置けない時をそこで送ったことを思い、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》ほんとうに溜息《ためいき》らしい溜息の吐《つ》けたのもそこであることを思い、よく行って草を藉《し》いた牧場にも、赤々とした屋根や建築物《たてもの》の重なり合った対岸の町々にも、リモオジュ全体を支配するようなサン・テチエンヌの高い寺院の塔にも、別離《わかれ》を告げて行こうとした。汽車の窓からヴィエンヌ河も見えなくなる頃は、秋雨《あきさめ》も歇《や》んだ。
 岸本は全く見知らぬ仏蘭西人と三等室に膝《ひざ》を突合せて気味悪くも思わないまでに旅慣れて来たことを感じながら、汽車の窓に近く身を寄せて秋のまさに過ぎ去ろうとしている仏国中部の田舎を見て行った。彼は雨あがりの後の黄ばんだ雑木林を眺《なが》めたり、丘つづきの傾斜に白樺《しらかば》、樫《かし》、栗《くり》などの立木を数えたりして乗って行った。時としては線路に添うた石垣の上に野生の萩《はぎ》かとも見まがう黄な灌木《かんぼく》の葉の落ちこぼれているのを見つけて、国の方の東北の汽車旅、殊《こと》に白河あたりを思出した。その葉の色づいたのはアカシヤの若木であった。枯草を満載した軍用の貨物列車、戦地の方の兵士等が飲料に宛《あ》てるらしい葡萄酒の樽《たる》を積んだ貨物列車も、幾台となく擦違《すれちが》って窓の外を通った。
 オート・ヴィエンヌから隣州のドルドオニュへ越え、コキイユという小さな田舎らしい停車場を過ぎて、南へ行く旅客はペリギュウで乗換えた。ポオプイエの附近を乗って行く頃から、車窓の外に見える地味も変り、人家も多くなり、青々とした野菜畠すら望まれるように成ったばかりでなく、車中の客の風俗からして変った。それらの人達の話し合う言葉の訛《なまり》や調子を聞いたばかりでも岸本は次第に西南の仏蘭西に入って行く思いをした。ジロンド州の地方を通過ぎて、暗くなってガロンヌ河を渡った。平時ならば六七時間で来られそうな路程《みちのり》に十一時間も要《かか》った。彼は汽車の窓を通して暗い空に映る無数の燈火《ともしび》を望んだ。そこが仏蘭西政府と共に日本の大使館までも移って来ているボルドオであった。
 これ程楽みにしてやって来れば、それだけでも沢山だ、とは岸本が自分で自分に言って見たことであった。彼には南方の仏蘭西を想像して来た楽みがあり、そこまで動いたという楽みがあった――仮令《たとえ》ボルドオで彼を待受けていてくれたものは二日とも降り続いた雨ではあったが。ボルドオのサン・ジャン停車場前の旅館では
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