思い出した。
 知らない国の人が亡くなったとも思われないような力落《ちからおと》しを感じながら、岸本は独《ひと》りでサン・テチエンヌの古い寺院の方へ歩いて行った。

        百三

 丁度死者のための大きな弥撒《メス》が行われているところであった。ヴィエンヌ河の岸に添うて高く岡の上に立つその寺院《おてら》は、ゴシック風の古い石の建築からして岸本の好ましく思うところで、まるで樹《き》と樹の枝を交叉《こうさ》した林の中へでも入って行くような内部の構造まで彼には親しみのあるものと成っていた。よく彼はそこへ腰掛けに来た。その日もあの亡《な》くなった老婦人の生涯を偲《しの》ぼうためばかりでなく、しばらくその静かな建築物《たてもの》の中で自分のたましいを預けて行くことを楽みにした。あだかも樹蔭《こかげ》に身を休めて行こうとする長途の旅人のごとくに。
 大理石の水盤で手を濡《ぬ》らし十字架のしるしを胸の上に描きながらその日の儀式に参列しようとする婦人の連《つれ》は幾組となく岸本の側を通った。戦時以来初めての死者の祭のことで、負傷した仏蘭西《フランス》の兵士等まで戦友を弔い顔に集って来ていた。羅馬《ローマ》旧教の寺院には何等《なんら》かの形で必ず表し掲げてある「十字架の道」――その宗教的な絵物語の尽きたところまで右側の廻廊について奥深く進んで行くと、そこに空《あ》いた椅子があった。岸本は高い石の柱の側を選んで、知らない土地の人達と一緒に腰掛けた。古めかしく物錆《ものさ》びた堂の内へ響き渡る少年と大人の合唱の肉声は巨大な風琴《オルガン》の楽音と一緒に成って厳粛《おごそか》に聞えて来ていた。丁度暗い森の樹間《このま》を通して泄《も》れる光のように、聖者の像を描いた高い彩硝子《いろガラス》の窓が紺青《こんじょう》、紫、紅、緑の色にその石の柱のところから明るく透《す》けて見えていた。
 祭壇の方から香って来る没薬《もつやく》と乳香の薫《かおり》は何時《いつ》の間にか岸本の心を誘った。彼はこうした羅馬旧教の寺院の空気の中に実際に身を置いて見て、あの人間の醜悪を観《み》つくした末に修道院の方へ歩いて行ったばかりでなく終《しまい》には僧侶に等しい十字架を負う人と成ったという極端な近代人の生涯を想像して見た。彼はまた、あの男色の関係すらあったと言い伝えらるる友人との争闘より牢獄《ろうごく》にまで下った末にデカダンスの底から清浄な智慧《ちえ》の眼を見開いた名高い仏蘭西の詩人の生涯を想像して見た。

        百四

 合唱の声が止《や》むと、大きな風琴《オルガン》の響のみが天井の高い石の建築物《たてもの》の内部《なか》に溢《あふ》れた。やがて白い法服を着けた年とった僧侶が多勢の信徒を見下すような位置にある高い説教台の上に立った。戦時のツッサンの祭に際会して死者を弔うような説教がそれから可成《かなり》長く続いた。岸本の心は慷慨《こうがい》な口調を帯びた僧侶の説教の方へ行き、王冠の形した古めかしい説教台の方へ行き、その説教台と相対した位置にある耶蘇《やそ》の架像の方へ行った。しかし彼は何時の間にかそんなことを忘れてしまった。彼は、赤い法服を着け金色の十字架を胸のあたりに掛けた二三の老僧や黒い法服を着けた十幾人かの中年の僧侶が祭壇の前に並んでいることも忘れ、白い冠《かぶ》りものを冠った尼僧が教え子らしい女生徒を引連れて聴衆の中に混っていることも忘れ、つい側に腰掛けた黒ずくめの風俗の婦人達が説教に耳を傾けていることも忘れ、三本ずつ並んでとぼる長い蝋燭《ろうそく》の火が祭壇のあたりをかがやかしていることも忘れてしまった。唯《ただ》彼は石の柱の側に黙然《もくねん》と腰掛けて、仮令《たとえ》僅《わずか》の間なりとも「永遠」というものに対《むか》い合っているような旅人らしい心持に帰って行った。
 傾きかけた秋の日は高い岡の上に立つ寺院の窓を通して堂内の石の柱に映った。窓という窓の彩硝子は輝いた。あるいは十字架を花の環《わ》の形に、あるいは菱形《ひしがた》に、あるいは円形に意匠したその窓々の尖端《せんたん》、あるいは緑と紅との色の中心に描かれてある聖者の立像、それらが皆夕日に輝いた。こうしたゴシック風の古い建築物の内部にあっては、その中に置かれた羅馬旧教風な金色に錆《さび》た装飾もさ程目立っては見えなかった。あらゆる石の重みと、線と、組立とが高い天井の下に集められて、一つの大きな諧調を成していた。日は長い儀式の中で次第に暮れて行った。窓々に映る夕日も消えて行った。あだかも深い林の中に消えて行く光のように。そこには眼《ま》ばたきするように輝いて来た堂内の燈火《ともしび》と、時々響き渡る重い入口の扉《ドア》の音と、厳粛《おごそか》に沈んで行く黄昏時《たそがれどき》の暗
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