この牧野であった。
野外の製作に疲れたらしい牧野が靴を脱ぐところを見て、岸本は自分の借りている部屋の方へ行った。橋の畔から帰りがけに聞いて来たヴィエンヌ河の水声はまだ彼の耳の底にあった。彼は巴里の狭苦しい下宿に身を置いたよりも、その田舎家の二階の部屋の方に反《かえ》って欧羅巴の旅らしい心持をしみじみと味うことが出来た。彼は親しみのある宿屋の燈火《ともしび》の前に漸くのことで自分を見つけた旅人のような気もしていた。飾りとても無い部屋で、唯一つある窓のところへ行けば朝晩の露に濡《ぬ》れる葡萄の葉が見られ、寝台の置いてある部屋の隅《すみ》へ行けば枕頭《まくらもと》に掛る黒い木製の十字架が見られ、暖炉の前に行けば幼い基督《キリスト》を抱いた聖母の画像が羅馬《ローマ》旧教の国らしく壁の上を飾っているぐらいに過ぎなかった。しかし彼はその部屋に居る心を移して、あの澱《よど》み果てた生活から身を起して来た東京浅草の以前の書斎の方へ直《す》ぐに自分を持って行って考えることも出来た。あの冷い壁を見つめたぎり、身動きすることも、家のものと口を利《き》くことも、二階から降りることすらも厭《いと》わしく思うように成った七年の生活の終りの方へ。あの光と、熱と、夢のない眠より外に願わしいことも無くなってしまったような懐疑《うたがい》の底の方へ。あの深夜に独り床上に坐して苦痛を苦痛と感ずる時こそ麻痺《まひ》して自ら知らざる状態にあるよりはより多く生くる時であると考えたような自分の身のどんづまりの方へ。あの「生の氷」に譬《たと》えて見た際涯《はてし》の無い寂寞《せきばく》の世界の方へ。あの極度の疲労の方へ。あの眼の眩《くら》むような生きながらの地獄の方へ。あの不幸な姪と一緒に堕《お》ちて行った畜生の道の方へ――
不思議な幻覚が来た。その幻覚は仏蘭西の田舎家に見る部屋の壁を通して、夢のような世界の存在を岸本の心に暗示した。曾《かつ》ては彼が記憶に上るばかりでなく、彼の全身にまで上った多くの悲痛、厭悪《えんお》、畏怖《いふ》、艱難《かんなん》なる労苦、及び戦慄《せんりつ》――それらのものが皆燃えて、あだかも一面の焔《ほのお》のように眼前《めのまえ》の壁の面を流れて来たかと疑わせた。
百二
寺院《おてら》の鐘の音《ね》が響き渡った。ツッサン(死者の祭)の日の来たことを知らせるその鐘の音は樹木の多い町はずれの空を通して、静な煙の立登る赤瓦の屋根の間へも伝わり、黄葉の萎《しお》れ落ちた畠《はたけ》へも伝わって来た。バビロン新道の宿でもその日は鉢植《はちうえ》の菊などを用意し、主婦《かみさん》や少年のエドワアルが墓参りのために近くにある村の方へ出掛けようとしていた。
岸本がビヨンクウルの老婦人の亡《な》くなったことを聞いたのは、この死者の祭に先だつ数日前であった。今はヴェルサイユの兵営に自転車隊附として働いているあの書記の留守宅から出た通知状は巴里の下宿の方を廻って岸本の手許《てもと》に届いた。それにはあの老婦人の遺骸《いがい》が巴里のペエル・ラセエズの墓地に葬られるということが認《したた》めてあり、子息《むすこ》さんの書記を始め親戚一同の名前がその下の方に精《くわ》しい親戚関係と共に列《なら》べ記してあった。例《たと》えば、亡き人の姪のだれそれ、亡き人の義理ある兄弟のなにがしという風に。あの老婦人が大きな戦争の空気の中で病み倒れて行ったということは一層その死を痛ましくした。リモオジュの客舎で聞く寺院の鐘が特別の響を岸本の耳に伝えたのもそのためであった。
岸本は仏蘭西へ来て最初に自分を迎えてくれたのがあの老婦人であったことを思出した。異郷にある旅人として、自分のことを一番多く考えていてくれたのもあの老婦人であったことを思出した。王朝時代の昔を忘れかねていたようなあの仏蘭西の婦人が心の中心を失った結果として東洋諸国に対する夢のような憧憬《どうけい》を抱いたのか、どうか、その辺までは彼にも言うことが出来なかったが、とにかく趣味性の発達した、生れついて女らしい徳のある、惜しい人であったことを思出した。全く仏蘭西の言葉も知らずに旅に上って来た彼が異邦人としての沈黙から紛れる方法もなかったような折にも、「あなたは急いで仏蘭西語を学ぶが可《い》い、もしあなたが僅かの書籍《ほん》でも読み得るように成ればそれほどの無聊《ぶりょう》を感じないで済むであろう、自分が書き送るこの数行の言葉でもあなたを慰めることが出来れば仕合せである」などという手紙を寄せて励ましてくれたのもあの書記のお母さんであったことを思い出した。「この悲しい戦争が一日も早く終りを告げることを心から願っている」という意味の言葉で結んだセエブル出の手紙があの老婦人から貰った最後の消息であったことを
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