まで戦地の方から送られて来る負傷兵のための収容所となっていた。岸本の眼に触れるものは何一つとして戦時らしい田舎の光景でないものは無かった。野菜畠には戦地にある子を思い顔な老人が耕していた。麦畠には婦女《おんな》の手だけで収穫《とりいれ》の始末をしようとする人達が働いていた。
ヴィエンヌ河の岸に沿うて高く立つサン・テチエンヌ寺への坂道の角には、十字を彫り刻んだ石の辻堂《つじどう》がある。香華《こうげ》を具《そな》えた聖母マリアの像がその辻堂の中に祠《まつ》ってある。体縮み脊髄《せぼね》の跼《くぐま》った老婆が堂の前で細長い蝋燭《ろうそく》を売っている。その蝋燭の日中に並び点《とぼ》る火影《ほかげ》には、黒い着物のまま石段の上にひざまずいて、戦地にある人のために無事を祈ろうとするような年若な女も居た。
従軍の志望を果さなかった岸本はこのリモオジュの町はずれへ来てから、巴里の方で見聞《みきき》した開戦当時の光景や、在留する同胞の消息や、牧野等と一緒にあの都を立退くまでの籠城の日記とも言うべきものを書いて故国に居て心配する人達のために報告を送ろうとした。時々彼は筆を措《お》いて家の周囲《まわり》を歩き廻った。梨《なし》、桃は既に熟し林檎《りんご》の実もまさに熟しかけている野菜畠の間を歩いても、紅《あか》い薔薇《ばら》や白い夾竹桃《きょうちくとう》の花のさかんに香気を放つ石垣の側を歩いても、あるいはこのあたりに多い羊の群の飼われる牧場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅らしい心地《こころもち》を味《あじわ》うに事を欠かなかった。そういう折には彼はよく主婦の甥子《おいご》に当るエドワアルをも伴った。
「ムッシュウなんて彼《あれ》のことを御呼びに成らないで、エドワアルと呼捨になすって下さい。あれはまだほんの子供ですから」
と主婦は十六ばかりになる少年を前に置いて言ったが、牧野も岸本も相変らず「ムッシュウ、ムッシュウ」と呼んで土地の事情に精《くわ》しいその少年を朝晩に相手とした。牧野は近くにある牧場を選んで画作に取りかかった。そこへ岸本が歩いて行って見る度に、必《きっ》と牧野の後に足を投出して眼前《めのまえ》の風景と画布《カンバス》とを見比べているエドワアルを見つけた。岡の地勢を成した牧場の内《なか》の樹木から遠景に見えるリモオジュの町々、古い寺院の塔などが牧野の画の中に取入れられてあった。牛の踏みちらした牧場の草地へはところどころに白い鶏の来るのも見えた。岸本がそこへ行って草を藉《し》き足を投出して見た時は、あの四時間も五時間も高瀬と一緒に警察署の側《わき》に立ちつづけたような巴里の混乱から逃《のが》れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来てからの初めての休息らしい休息をそのヴィエンヌの河畔に見つけたように思った。
九十八
二月《ふたつき》近く静かな田舎に暮して見ると、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》のことばかりでなく、国を出た当時のことまでが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。彼はそう思った。仮りに人生の審判があって、自分もまた一被告として立たせらるるという場合に当り、いかなる心理を盾《たて》として自己《おのれ》の内部《なか》に起って来たことを言い尽すことが出来ようかと。何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような一生の危機に際会したものが、どうして明白な、条理《すじみち》の立った、矛盾の無い、道理に叶《かな》ったことが言えよう。長い限りの無い悪夢にでも襲われたようにして起って来た恐怖――親戚《しんせき》や友人に対してさえ制《おさ》えることの出来なかった猜疑心《さいぎしん》――眼に見えない迫害の力の前に恐れ戦《おのの》いた彼のたましい――夢のように急いで来た遠い波の上――知らない人の中へ行こうとのみした名のつけようの無い悲哀――何という恐ろしい眼に遭遇《であ》ったろう。何という心の狼狽《ろうばい》を重ねたろう。何という一生の失敗だったろう。この深い感銘は時と共にますますはっきりとして来ることは有っても、薄らいで行くようなものでは無かった。しかし一時のような激しい精神《こころ》の動揺は次第に彼から離れて行った。不幸な姪《めい》に対する心地《こころもち》のみが残るように成って行った。その時になって彼は心静かに自分の行為《おこない》を振返って見た。どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そう葬り隠そうとした彼は、仮令《たとえ》いかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷《ふかで》や自分の生涯に留めた汚点をどうすることも出来ないかのように思って来た。彼は自分を責めれば責めるほど、涙ぐましいような気にさえ成った。
その心で、岸本は田舎家の裏にある野菜畠へ行った。一すじの小径《こみち》を中央
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