垣の上からしばらく自分の宿とする田舎家までも見ることは出来なかったまでも、耕地の多い対岸の傾斜に並ぶ仏蘭西の田舎らしい赤瓦《あかがわら》の屋根を望むことは出来た。
仏国オート・ヴィエンヌ州、リモオジュ町、バビロン新道《しんみち》、そこが岸本の牧野と一緒に宿をとったところだ。彼は喇叭《らっぱ》を吹いて新聞を売りに来る女のあるような在郷臭《ざいごくさ》い町はずれへ来ていた。その家の二階に沈着《おちつ》いて三日目に、彼は巴里にある岡から手紙を受取って、非常に形勢の迫ったことを知った。急いで書いたらしい岡の手紙の中には、「巴里に帰ることを止《や》めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留する三人の美術家は英国へ逃《のが》れようとして不可能となったともしてあった。
九十六
岡からは牧野岸本両名|宛《あて》で同時に別の手紙が来た。
「到頭巴里|立退《たちの》きの幕と成った。既に仏蘭西政府は他へ移ったらしい。大使館でも昨夜書類の焼却などをやっていた。昨日午後|独逸《ドイツ》軍の飛行機が巴里市に六つの爆弾を落した。一つはガアル・ド・リオンに、一つは東の停車場に、一つはサン・マルタンの商店をこわした。最早《もはや》巴里包囲は免れぬらしい。敵の騎兵《きへい》は八十キロメエトルの処まで来ている。昨夜一同集合して最終の相談をして、今日の具合で英国へ渡れなければリオンに一同出発する。今日の中にはとにかく巴里を出る。かかる訳で君等の荷物も、無論|吾儕《われわれ》のもそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂《つい》に独逸の奴原《やつばら》に蹂躙《じゅうりん》せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだのを見て巴里を離れるのは慚愧《ざんき》を感ずる。僕には此処《ここ》は旅の土だ。彼等には墳墓の地だ。感慨無量だ」
巴里から同行した美術家仲間はこの手紙を見てリオンへ向けて発《た》って行った。リモオジュには牧野と岸本だけが残った。三日ばかり経《た》つと、巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン・パルナッスの附近にあった二十一人の同胞を一組とした絵画彫刻科学等の方面の人達が思い思いにあの都を立退いたことを知った。十一人は英国へ。一人は米国へ。二人はニスへ。一人はリオンへ。ディエップ行の列車も明日の朝の三時が最後だとか一歩遅れれば籠城《ろうじょう》の外はないと言われる中にあって、倫敦《ロンドン》へと志した人々があるいはアーヴル経由か、あるいはブルタアニュのサン・モアかと、戦乱を避け惑《まど》うた光景がその報告で想像された。市街の夜の燈火が悉《ことごと》く消され、ブウロンニュの森には牛、豚、羊の群が籠城の食糧の用意に集められたという巴里を美術家仲間で最終に去ったのは岡と今一人の彫刻家であったらしいことをも知った。在留した同胞の殆《ほと》んどすべては既に巴里を去ったことをも知った。
リオン行の美術家仲間からも汽車旅の混雑と不安とを岸本の許《もと》へ知らせて来た。それで見ると、車掌さえ行先を知らない列車に幾度か乗換え六箇所の停車場で三時間あるいは六時間を待ち都合四十時間もかかって漸《ようや》くリモオジュからリオンに辿《たど》り着くことが出来たとしてあった。岸本等の宿へは、主婦《かみさん》の姉の娘夫婦にあたる人達が巴里から避難して来た。この人達は岸本等が七時間で来たリモオジュまでの汽車旅に三十時間を費したと話した。巴里ばかりでなく北の国境の方からの多数な避難者の群は荷物列車にまで溢《あふ》れているとの話もあった。
「僕等はまだ好いとしても、独逸の方に居た連中はさぞ困ったろうね――」
と岸本は隣室の牧野を見る度《たび》に言い合った。仏独国境の交通断絶以来全く消息を知ることの出来なかった伯林《ベルリン》の千村教授や、ミュウニッヒの慶応の留学生が倫敦《ロンドン》に落ち延びたことも分って来た。欧羅巴へ来てから岸本が知るように成った同胞の多くは皆戦争の為にちりぢりばらばらに成ってしまった。
前途のことは言うことが出来なかった。しかし岸本と牧野とは宿の人達の厚意で比較的安全な位置に身を置くことが出来た。主婦は岸本のために何処《どこ》からか机を借りて来て、それを二階の部屋の窓の側に置いてくれた。蔓《つる》の延びて来ている葡萄棚《ぶどうだな》を越して窓の外にはバビロン新道が見えた。岡の地勢を成した牧場はその新道まで迫って来ていて、どうかすると赤い崖《がけ》の上へ来る牛の顔が窓の硝子《ガラス》に映った。
九十七
大風の吹き去った後のような寂しさはこの田舎にもあった。働き盛りの男子は皆|畠《はたけ》や牧場を去り、馬は徴発され、小屋も空《むな》しくなり、陶器の工場も閉《とざ》され、商家も多く休み、中学や商業学校の校舎
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