から。あの層々|相重《あいかさ》なる窮屈な石造の建築物《たてもの》から。あの人を弱くするような密集した群集の空気から。
同行五人の旅は汽車の中をも楽しくした。前の年の五月に岸本がマルセエユからリオンへ、リオンから巴里へと向った時は殆《ほと》んど夜中の汽車旅であったから、今度の車窓に映るものは初めて見るもののみのようであった。彼は仏蘭西中部の平坦《へいたん》な耕地、牧場、それから森なぞをめずらしく見て行った。オート・ヴィエンヌ州に近づくにつれて故国の方の甲州や信州地方で見るような高峻《こうしゅん》な山岳を望むことは出来ないまでも、一年余を巴里に送った身には久しぶりで地方らしい空気を吸うことが出来た。途中の停車場で負傷兵を満載した列車にも逢った。戦地の方から送られて来たそれらの負傷兵は白耳義《ベルジック》方面の戦いの激しさを事実に於いて語って見せていた。
七時間ばかりもかかって岸本は連《つれ》と一緒にリモオジュの停車場に着いた。丁度出征する軍人を見送るために町の人達が停車場の附近に集っている時で、生れて初めて日本人というものを見るかのような土地の男や女が右からも左からも岸本等の顔を覗《のぞ》きに来た。
一日先にこの田舎町へ着いていた巴里の下宿の主婦《かみさん》は停車場まで姪《めい》をよこしてくれた。主婦は姉にあたる人の家で牧野や岸本を待受けていてくれたが、まだ部屋の用意が出来なかった。岸本等は停車場前の宿屋でその日を送ることにした。食事にだけ来いと言って、夕方には主婦の甥子《おいご》が使に来たので、五人の一行は町はずれの家の方へ歩いて行った。日本人のめずらしい土地の子供等は後《あと》になり前《さき》になりしてぞろぞろ随《つ》いて来た。岸本が巴里から一緒にやって来た美術家の中には極《ごく》旅慣れた人も居た。あまりに土地の子供等が煩《うるさ》く随いて来て、どうかすると後方《うしろ》から駆け抜けるようにしては五人の顔を見ようとするので、その画家はわざと子供等の方へ大きな眼球《めだま》を突き付けながら、
「御覧」
と戯れて見せたこともあった。岸本等が着いたことはこれ程土地の人にはめずらしかった。入口の庭には葡萄棚《ぶどうだな》があり裏には野菜|畠《ばたけ》のあるような田舎風の家で、岸本は巴里の方から来た主婦や主婦の姪と一緒に成った。
「この一番|年長《としうえ》の方が岸本さんです。こちらは牧野さんと仰《おっしゃ》って矢張《やはり》巴里に来ていらっしゃる美術家です」
こんなことを言って、主婦は姉という人に岸本等を引合わせた。黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着けた背の低いお婆さんは物静かな調子で一々遠来の客を迎えた。
土地の子供の煩さかったことは、葡萄棚に近く窓のある食堂で岸本等が楽しい夕飯に有付《ありつ》いた時にも石垣の外から覗きに来るものがあるくらいであった。こうした場所にも関《かか》わらず、停車場前に戻り、そこに一夜を送って、サン・テチエンヌ寺の塔を宿屋の窓の外に望みながら朝霧の中に鶏の声を聞いた時は、実に彼は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る静かな田舎に身を置き得た心地《ここち》がした。
九十五
国を出て早や十五カ月ほどに成った。十五カ月とは言っても岸本に取っては随分長い月日であった。過ぐる十五カ月は三年にも四年にも当るように思われた。彼はもう可成《かなり》長い月日の間、故国を見ずに暮したように思った。その間、日頃親しかった人々の誰の顔を見ることも出来ず、誰の声を聞くことも出来ずに暮したように思った。彼は歩きづめに歩いてまで宿屋に辿《たど》り着くことの出来ない旅人のように自分の身を考えた。この仏蘭西《フランス》の田舎《いなか》へは彼は心から多くの希望《のぞみ》をかけて来た。何よりも彼の願いは、たましいを落着けたいと思うことであった。どうやらその願いが叶《かな》いそうにも見えて来た。「君はこんな田舎が好いのか。ここにはブルタアニュの海岸に見つけるほどの野趣も無いではないか。そうかと言って田舎の都会らしい潤いにすらも乏しいではないか。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里《パリ》から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊《き》いたくらいである。それにも拘《かかわ》らずサン・テチエンヌ寺の立つ高い岡の上に登ってあの古い寺院を背後《うしろ》にした眺望《ちょうぼう》の好い遊園の石垣の上から耕作と牧畜との地たるリモオジュの町はずれを眺《なが》めた日から、しみじみ欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》の旅のことが思われた。ヴィエンヌ河はその町はずれを流れていた。仏蘭西の国道に添うて架《か》けてある石橋、騾馬《らば》に引かせて河岸《かし》の並木の間を通る小さな荷馬車なぞが眼の下に見える。彼はその石
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