取っては国の方で名前を聞いていた人達であった。牧野には、岸本はもっと激烈な人を想像していた。逢《あ》って見た牧野は存外やさしい、綿密な、しかも気鋭な美術家であった。光沢《つや》のある頬《ほお》の色は紅味勝《あかみが》ちな髪の毛と好く調和して、一層この人を若々しく見せた。小竹には、岸本はもっと親しみ難《にく》いような人を想像していた。旅で一緒に成った小竹は直ぐにも親しめそうな、人を毛嫌《けぎら》いするところの少い美術家で、誰にでも好かれそうな沈着な性質を見せていた。二人は巴里へ来てまだ月日も浅し、旅らしい洋服までが黒い煤《すす》にも汚れずにあった。
「牧野は矢張《やっぱり》牧野だ。もっと弱ってでも来るかと思ったら、君の元気なのには感心した」と岡が言った。
「そりゃ岡なんかとは違うよ」と牧野は戯れるように。
「こうして集って見ると、矢張僕が一番|年長《うえ》かなあ」と岸本が言った。
「岸本さんなぞは、もう老人の部ですよ」と復《ま》た牧野が戯れるように言って笑った。
「でも、国の方に居るとこんなに皆《みんな》集るようなことも無いし、何と言っても旅は面白いね」と小竹が言った。「岡の贔顧《ひいき》なマドマゼエルもよく拝見したしサ――」
「とにかく旅に来ると、自分というものを省るようには成るね」と岡はやや真面目《まじめ》になって答えた。しばらく岸本はこの人達と一緒に楽しい時を送っていた。彼は、何を見聞《みきき》しても面白そうな心にわだかまりの無い牧野や小竹を羨《うらや》ましく思った。
九十
国の方に残して置いて来た子供のことも心に掛って、遠く離れている泉太や繁を養うためにも、岸本は果したいと思う仕事を客舎で急ごうとした。七月も下旬に入った頃であった。窓の外へは時々雷雨が来て、どうかすると日中に燈火《あかり》を欲しいほど急に部屋の内を暗くすることも有った。岸本が稿を継ごうとしたのは東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部ともいうべきものであった。部屋に居て机に対《むか》って見ると、その稿を起した頃の心持が、まだこの旅を思立たない前に恐ろしい嵐《あらし》の身に迫って来た頃の心持が、あの浅草の二階でこれが自分の筆の執り納めであるかも知れないと思った頃の心持が、岸本の胸の中を往来した。巴里の客舎にあって、もう一度その稿を継ぐことが出来ると考えるさえ彼には不思議のようであった。
岸本がアウストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、丁度その自分の仕事に取掛っている時であった。一日は一日より何となく町々の様子がおだやかでなくなって来た。不思議な、圧《お》しつけるような、底気味の悪い沈黙は町々を支配し始めた。岸本が毎日食堂で見る顔触《かおぶれ》は、産科病院|側《わき》の旅館から通って来る柳博士に隣室の高瀬の二人で、若い独逸《ドイツ》人の客は最早《もう》見えなかった。食堂へ集る度に、高瀬等と岸本とは互いに不思議な顔を見合せるように成って行った。
来《きた》るべき大きな出来事の破裂を暗示するような不安な空気の中で、岸本は仕事を急いだ。あのノルマンディ生れの仏蘭西の作家が「聖アントワンヌの誘惑」を起稿したのは普仏戦争の最中で、巴里の籠城《ろうじょう》中に筆を執ったとやら。丁度あの作家は五十歳でその創作を思い立ったとやら。岸本はそんなことを旅の身に想像し、国の方に居る頃から友達とよく話し合ったあの作家が四十何年か前には巴里で物を書いていたことを想像し、それによって自分を慰め励まそうとした。時々彼は執りかけた筆を置いて、部屋の窓へ行って見た。驟雨《しゅうう》のまさに来ようとする前のようなシーンとした静かさが感じられた。食堂の方へも行って見た。そこには、おそろしく倹約に暮している下宿の主婦《かみさん》が、燈火《あかり》を点《つ》け惜んで、薄暗い食堂の隅《すみ》に前途の不安を思いながらションボリ立っていた。
「岸本さん、御覧なさい、あれは何かの前兆です」
と主婦は食堂の窓の側に立って、黄昏時《たそがれどき》の空気のために紅味勝《あかみが》ちな紫色に染まった産科病院の建築物《たてもの》を岸本に指《さ》して見せた。主婦の姪《めい》でリモオジュの田舎《いなか》の方から来ている髪の赤く縮れた娘も一緒にその窓から血の色のような夕映《ゆうやけ》を眺めた。
「戦争は避けられないかも知れませんよ」
と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動《ゆす》って見せた。
アウストリア対セルビア宣戦の日から数えて六日目頃に、漸《ようや》く岸本は国の方へ郵便で送るだけの仕事の一部を終った。日頃|往来《ゆきき》の人の多い並木街も何となく寂しく、出歩くものすら少かった。
九十一
平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって変って行った。今日動員令が下るか明日
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