下るかと噂《うわさ》されていた頃に、岸本は高瀬と連立って白耳義《ベルジック》行の人を北の停車場《ステーション》まで送りに行った。序《ついで》に東の停車場へも立寄って見た。その停車場内の掲示の前で、仏独国境の交通は既に断絶し、鉄道も電線も不通に成ってしまったことを知った。巴里を立退《たちの》こうとしてその停車場に群がり集る独逸人もしくは墺地利《オーストリア》人はいずれも旅装束で、構内の敷石の上へ直接《じか》に足を投出し汽車の出るのを待っていた。岸本は自分の直ぐ眼前《めのまえ》で突然卒倒しかけた労働者風の男にも遭遇《でっくわ》した。荷物をかかえた旅客、別離《わかれ》を惜む人々、泣き腫《は》らした婦人の顔などまでが時局の急を告ぐるかのように見えた。岸本は高瀬と一緒に急いで下宿の方へ引返して来て、実に容易ならぬ場合に際会したことを思った。取あえず岸本は自分の部屋に籠《こも》って、国の方の義雄兄|宛《あて》に形勢の迫って来たことを書いた。今後のことは測り難いと書いた。子供のことは何分頼むと書いた。彼は東京にある二三の友人へもいそがしく手紙を認《したた》めたが、西伯利亜《シベリア》経由とした故国からの郵便物は既にもう途絶していることをも知った。
 夕方に、町へ出て見た。彼は早や大きな戦争を予想して悲壮な感じに打たれているような市民の渦の中に立った。そこここに貼付《てんぷ》された三色旗の印刷してある動員令、大統領の諭告《ゆこく》、貨物輸出の禁止令などを読もうとする人達が、今まで鳴《なり》を潜めて沈まり返っていたような町々に満ち溢《あふ》れた。何となく殺気を帯びて来た人々の歩調も忙しげに岸本の胸を打った。夫や、兄弟や、あるいは情人の身を案じ顔な婦女《おんな》までが息をはずませてその間を往《い》ったり来たりした。
 僅《わず》か一週間ばかりの間に岸本はこんな空気の中に居た。急激な周囲の変化はあだかも舞台面の廻転によって劇の光景の一変するにも等しいものがあった。名高い社会党の首領で平和論者であった仏蘭西人が戦争の序幕の中に倒れて行ったことは一層この劇的な光景を物凄《ものすご》くした。岸本は自分の部屋へ行って独りでいろいろなことを思った。遠く故国を離れて来て図らず動乱の中に立った自分の旅の身に思い当った。夜の十一時頃には雨が降出して、窓から外に見える並木も暗かった。

        九十二

 壮丁《そうてい》という壮丁は続々国境に向いつつあった。出征する兵士の並木街を通るような光景が既に二日ばかりも続いた。早《はや》独逸軍の斥候《せっこう》が東仏蘭西の境を侵したという報知《しらせ》すら伝わっていた。下宿では主婦《かみさん》も、主婦の姪も食堂の窓のところへ行って、街路《まち》を通る歩兵の一隊を見送ろうとした。岸本が同じ窓に近く行った時は、主婦は彼の方を振向いて、
「岸本さん、争われないものじゃ有りませんか。吾家《うち》に居た若い独逸人の客が、ちゃんと戦争を知っていましたぜ。親の許《ところ》から手紙が来ると大急ぎで巴里を発《た》って行きましたぜ。確かにあの男は独探《どくたん》ですよ」
 と言いながら自分の鼻の側《そば》へ人差指を宛行《あてが》って見せた。さもさもあんな客を泊めたことを口惜しく思うかのように。
「ホラ、この町を毎日のようにうろうろした変な婦人《おんな》が有りましたろう。皆さんで『カロリイン夫人』だなんて綽名《あだな》をつけた婦人が有りましたろう。どうもあの婦人の様子がおかしいおかしいと思いました。あれは偽《うそ》の白痴ですよ。偽の婦人《おんな》ですよ。白粉《おしろい》なんかをいやに塗《つ》けてると思いましたが、今になって考えると、あれは男の顔ですよ」
 と復《ま》た主婦が言って見せた。疑心に駆《か》られたこの仏蘭西の女は自分の下宿の客ばかりでなく、町を徘徊《はいかい》した白痴の婦人までも独探にしてしまった。
 窓の外を通る兵士の群を見送った眼で主婦の姪を見ると、岸本はリモオジュの田舎《いなか》から出て来たこの娘が紅く顔を泣腫《なきはら》しているのに気がついた。彼女の兄も許婚《いいなずけ》にあたる人も共に出征の途に上るであろうと主婦が岸本に言って聞かせた。岸本は自分の部屋へ行った。列をつくって通る召集された市民の群はその窓の外に続いた。いずれも鳥打帽子を冠《かぶ》り、小荷物を提《さ》げ、仏蘭西の国歌を歌って、並木のかげに立つ婦子供《おんなこども》に別離《わかれ》の叫声を掛けては通過ぎた。一切の乗合自動車も軍用のために徴発され、モン・トオロン行の車の響も絶えた。十八歳から四十七歳までの男児は皆この戦争に参加するとのことで、それらの人達を根こそぎ持って行こうとするような大きな潮が流れ去ろうとしていた。
 巴里在留の外国人で立退きたいと思うも
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