f父に宛《あ》てて、彼女は根気好くも書いてよこした。叔父さんの旅の便りが新聞に出る度《たび》に、自分はそれを読むのをこの上もない心の慰めとしていると書いてよこした。叔父さんに別れた頃の季節が復た回《めぐ》って来たと書いてよこした。遠く行く叔父さんを見送った時の心持が復た自分に帰って来たと書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立《たたず》んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると書いてよこした。
 岸本は自分の旅の心を昔の人の旅の歌に寄せて、故国の新聞への便りのはじに書きつけて送ったこともあった。節子はその古歌を引いて、同じ昔の人の詠《よ》んだ歌の文句をさながら彼女の遣瀬《やるせ》ない述懐のように手紙の中に書いてよこした。

  「つきやあらぬ、
   はるや昔の
   はるならぬ、
   わがみひとつは
   もとのみにして」

 先頃《さきごろ》送った家中で撮《と》った写真を叔父さんはどう見たろうとも彼女は書いてよこした。あの中に居る自分はまるで幽霊のように撮れて、ああした写真で叔父さんにお目に掛るのも恥かしいと書いてよこした。その事を母に話して叱《しか》られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆やは今でも時々訪ねて来てくれるが、自分は家にある雑誌なぞを貸与えて婆やの機嫌《きげん》を取って置いたと書いてよこした。「婆やは可恐《こお》うございますからね」と書いてよこした。
 旅に上ってから以来《このかた》、引続き岸本はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を感じたのであった。彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度《たび》に、自分の傷口が破れてはそこから血の流れる思いをした。嘆息して、岸本は机に対《むか》った。書架の上から淡黄色な紙表紙の書籍を取出して来て、自分の心をその方へ向けた。そして側目《わきめ》もふらずに新しい言葉の世界へ行こうとした。英訳を通して日頃親しんでいた書籍の原本を手にすることすら彼には楽しかった。彼は既に読みたいと思うかずかずの書籍を有《も》っていたが、覚束《おぼつか》ない彼の語学の知識では多くはまだ書架の飾り物であるに過ぎなかった。この国の言葉に籠《こも》る陰影の多い感情までも読み得るの日は何時のことかと、もどかしく思われた。

        六十六

 旅の空で岸本は既に種々《いろいろ》な年齢を異にし志すところを異にした同胞に邂逅《めぐりあ》った。わざわざ仏蘭西船を択《えら》んで海を渡って来て、神戸を離れるから直《ただち》に外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国へ来て日本人同志そう一つところへ集ってしまっても仕方が無い、こうした岸本の考え方はある言葉の行違いから一部の在留者の間に反感をさえ引起させた。「岸本は日本人には附合わないつもりだそうだ」と言って彼の誠意を疑うような在留者の声が彼自身の耳にすら聞えて来た。しかしこの疑いは次第に解けて行った。モン・パルナッスの附近に住む美術家で彼の下宿に顔を見せる連中も多くなり、通りすがりの同胞で彼の下宿に足を留めて行く人達も少くはなかった。
 岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見えた。その教授に、東北大学の助教授に、いずれも旅で逢った好ましい人達が食事の度《たび》に彼の下宿の食堂へ通って来たばかりでなく、彼の方からも自分の部屋から見える旅館へ行って夜遅くまで思うさま国の方の言葉を出して話し込んだ時のことが、まだ昨日《きのう》のことのように彼の胸にあった。もし互の事情が許すなら、もう一度|白耳義《ベルジック》のブラッセルか、倫敦《ロンドン》あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林《ベルリン》の地を踏んだと言って帰国の途上から葉書をくれた助教授、それらの人達が去った後の並木街を岸本は独りで窓のところから眺めた。とても国の方では話し合わないような話が異郷の客舎に集まった教授等と自分の間に引出されて行ったことを想って見た。旅の不自由と、国の言葉の恋しさと、信じ難いほどの無聊《ぶりょう》とは、異郷で邂逅《めぐりあ》う同胞の心を十年の友のように結び着けるのだとも想って見た。彼は一緒にルュキサンブウルの公園を歩いたりリラの珈琲店《コーヒーてん》に腰掛けたりした教授連に比べて見て、どれ程自分のたましいが暗いところにあるかということをも
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