掛けて暮せる頃は、自分の髪の毛色の違い、自分の皮膚の色の違いを忘れる時すらあるように成った。不思議にも、外界の事物に対してこれ程彼が無頓着《むとんじゃく》に成ったと同時に、外界の事物もまた彼に対して無頓着に成った。彼は自分の部屋の窓の下を往来する人達と全く無関係に生きて行く異邦の旅人としての自分の身をその客舎に見つけた。あだかも獄裡《ごくり》に繋《つな》がるる囚人《しゅうじん》が全く娑婆《しゃば》というものと縁故の無いと同じように。
 恐ろしい町の響が岸本の耳につくように成った。一切の刺激から起る激しい感覚が沈まって行くにつれ、そうした響がハッキリと彼の耳に聞えて来た。剣のように尖《とが》った厳《いか》めしく頑固《がんこ》な馬具を着け、真鍮《しんちゅう》の金具《かなぐ》を光らせた幾頭かの馬が大きな荷馬車を引いて行く音、モン・トオロン行の乗合自動車の通う音、並木街を往復する電車の音、その他石造の街路から起る町の響が、高い建築物の間に響けて、岸本の部屋の硝子窓に揺れるように伝わって来た。それを聞くと遽《にわ》かに故国も遠くなった。彼はそろそろ外国生活の無聊《ぶりょう》がやって来たことを感じた。
 苦難はもとより彼の心に期するところであった。どんなにでもして彼は耐えがたい無聊と戦わねば成らなかった。そして心の飄泊を続けねば成らなかった。

        六十四

 復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎《ごと》に泉太や繁のことを書いて、それに彼女の境遇を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場《ステーション》まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったという時の彼女を想いやることも出来た。彼女の母にも姉の輝子にも男の子の生れている高輪の家へもう一度帰って行った時の彼女を想いやることも出来た。多くの知人や親戚《しんせき》から祝わるる姉の子供に比べて、誰一人顧るものもない彼女に生れた子供こそその実この世に幸福なものであると言ってよこした彼女の女らしい負惜みを思いやることも出来た。あの事があってからの父は別の人かと思われるほど彼女に優しく、叔父さんから父|宛《あて》に来た手紙もこっそり彼女の机の上に置いてくれるほどの人になったと言うような、とかく母に対して気まずい思いをしているらしい彼女を遠く想いやることも出来た。「実に可哀そうなことをした」この憐《あわれ》みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
 異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥《たんす》の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚《おきとだな》に近い。その抽筐《ひきだし》の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮《と》った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団《ふとん》を敷いて坐った祖母《おばあ》さんが居る。庭には嬰児《あかご》を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺《なが》められなかった。一番|後方《うしろ》に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生《は》えさがりは一層彼女の頬《ほお》を痩《や》せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
 それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。

        六十五

 山羊《やぎ》の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚《さ》ました。巴里《パリ》のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音《ね》がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清《す》んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対《むか》った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩《たた》く音をさせた。何時でも西伯利亜《シベリア》経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極《きま》っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
 と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展《ひろ》げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている
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