L名な学者です」
と老婦人は廊下のところに立って岸本に注意するように言った。
晩に出る最終の河蒸汽に乗後《のりおく》れまいとして、岸本は夫婦と一緒に河岸を急いだ。細君は教授の夫人への手土産《てみやげ》にと庭の薔薇《ばら》の花を提《さ》げ、自分がまだ娘であった頃から教授の家へはよく出入《ではいり》したという話を岸本にして聞かせた。漸くのことで三人は船に間に合った。知らない仏蘭西人ばかりの乗客の間に陣取って種々《いろいろ》親しげに言葉を掛ける夫婦と一緒に腰掛けた時は、岸本に取って肩身が広かった。
「セエヌの水は何時《いつ》でもこんなに静かでしょうか」
「大抵こんなです。毎朝私はこの船で図書館通いをしています。夏の朝はなかなか好うござんすが、晩も悪くはありませんね」
岸本と書記とが暗い静かな河景色を眺めながら話している傍《そば》で、細君は女持の手提鞄《てさげかばん》を膝《ひざ》に乗せて二人の話に耳を傾けた。
このビヨンクウルの書記には著述もあった。その家に半ばを分けて来た植物の種子《たね》は岸本が国を出る時にあの中野の友人等から贈られたのだ。岸本は残りの半ばを植物園の近くに住むという教授の許へも分けるつもりで、これから書記夫婦と共に見に行こうとする教授の人となりを想像した。その晩の茶の会に集まろうとする未知の人々をも想像した。
六十一
ギイ・ド・ラ・ブロッスという町にある教授の家の茶の会から岸本が下宿の方へ歩いて帰って行った頃は大分遅かった。彼の胸は初めて仏蘭西人の家庭を見、未知の人々に逢ったその日のことで満たされていた。恐ろしく巌畳《がんじょう》なアーチ形に出来た家々の門の前には遅く帰った人達が立って、呼鈴《よびりん》の引金を鳴らしていた。家番《やばん》もぐっすり寝込んだ時分であった。
暗い階段を上って下宿の戸を開けると、皆もう寝沈まっていた。廊下の突当りにある自分の部屋へ行ってからも、岸本は直《す》ぐには寝台に上らなかった。部屋を明るくした古めかしい洋燈《ランプ》に対《むか》って見ると、「巴里へは何時御着きに成ったのです、何故もっと早く訪ねて来てくれないのです」と快く爽《さわや》かな調子で言ったブロッスの教授の声はまだ彼の耳についていた。印度《インド》研究に関した蔵書の類が沢山置並べてある書斎の中で、まだ大学へでも通っているらしい青年の方へ彼を連れて行って、「忰《せがれ》にも一つ逢《あ》ってやって下さい」と言ったあの教授の声も。それから彼が旅のしるしとして贈った銀杏の実なぞを教授は別の部屋の方へ持って行くと、茶に招かれて来ていた若い教授の細君らしい人達が集って、皆なで一緒にその粒の揃《そろ》った東洋植物の種を眺めながら、「まあ、植えてしまうのは惜しい、こうして見ていたい」と言ったあの女らしい人達の声も。彼はこの異郷に来て智識階級に属するそれらの人達とこれ程熱い握手を交《かわ》し得るとは思いもかけなかった。あのビヨンクウルの夫婦が河蒸汽や電車の切符まで彼には払わせなかった程の心づくしも、全く彼の予期しないことであった。敏感で優雅なビヨンクウルのお母さんも彼が初めて逢って見た旧《ふる》い仏蘭西の婦女《おんな》をいかにも好く表したような人であった。髪は最早《もう》白いほどの年頃ながら眼には青年のような輝きを見せた教授、素朴《そぼく》でそして男らしく好ましい感じのする書記、彼は眠りに就《つ》こうとして壁の側の寝台に上ってからも、それらの人達から受けた最初の好い印象を考えて、この温かい親切は長く忘れられまいと思った。
しかし朝になって見ると、初めて逢った人達の感じが好かっただけ、それだけ旅人としての物足《ものた》らなさが岸本の胸に忍び込んで来た。彼は皆の言った事を考えて見て、ボンヤリしてしまった。外国人は何処《どこ》までも外国人で、物の皮相にしか触れることの出来ないような物足らなさがその最初の好い印象と一緒になって起って来た。
仏蘭西に居る頃から人に頼んで日本の髪に結ったというマドマゼエルのことが、しきりと岸本の胸に浮んだ。それほど強烈な異国に対する憧憬の心を以《もっ》てしても、仏蘭西を捨てて去ったマドマゼエルがどれ程まで日本人の心の奥を汲《く》み知ることが出来るであろうか、とそう彼は想像して見た。彼はあの日本の着物を着て畳の上に坐っているマドマゼエルに、洋服を着て椅子に腰掛けている自分の旅の身を思い比べた。
「結局、自分等は芸術に行くの外《ほか》はないかも知れない。芸術によって、この国の人の心に触れるの外はないかも知れない」
この考えは岸本の心を駆《か》って一層言葉の稽古《けいこ》の方へ向わせた。
六十二
旅に来て五月目《いつつきめ》に、岸本は新たに父になったことを国の方からの
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