ゥた。こうした不断の被観察者の位置に立たせらるることは、外出する時の彼の心を一刻も休ませなかった。そしてまたこんな骨折が実際何の役に立つのだろうとさえ思わせた。下宿からシャトレエの橋の畔へ出るまでに彼の頭脳《あたま》は好い加減にボンヤリしてしまった。
 石で築きあげた高い堤について、河蒸汽を待つところへ降りた。中洲《なかす》になったシテイの島に添うて別れて来る河の水は彼の眼にあった。岸本が訪ねて行こうとする仏蘭西人は巴里の国立図書館の書記で、彼はその人のお母さんから英語で書いた招きの手紙を貰《もら》った。その中にはルウブルで河蒸汽に乗ってビヨンクウルまで来るように、自分等の家は河蒸汽の着くところから直《すぐ》である、五分とは掛らない、河蒸汽にも種々《いろいろ》あるからビヨンクウル行を気を着けよなぞと、細《こまか》いことまで年とった女らしく親切に書いてあった。岸本はシャトレエから河蒸汽に乗って、復《ま》たルウブルで乗換えるほどの無駄をした。それほどまだ土地不案内であった。その時の彼は仏蘭西人の家庭を見ようとする最初の時であった。どうにでも入って行かれるような知らない人達の生活が彼の前にあった。彼は右することも、左することも出来た。そしてこれから先逢う人達によって右とも左とも旅の細道が別れて行ってしまうような不思議な心持が彼の胸の中を往来した。

        五十八

「異人さん、ここがビヨンクウルですよ」
 とでも言うらしく、河蒸汽に乗っていた仏蘭西人が岸本に船着場を指《さ》して教えた。船着場から岸本の尋ねる家までは僅しかなかった。高いポプリエの並木の立った河岸《かし》の道路を隔ててセエヌ河に面した住宅風の建築物《たてもの》があった。そこが図書館の書記の住居《すまい》であった。岸本は門の扉《とびら》を押して草花の咲いた植込の間を廻って行った。何時《いつ》の間にか一|匹《ぴき》の飼犬が飛んで来て、鋭い眼付で彼の側へ寄って、吠《ほ》えかかりそうな気勢《けはい》を示した。
「あなたが岸本さんですか」
 とその時入口の石階《いしだん》のところへ出て来て英語で訊《き》いた年とった婦人があった。岸本はその人を一目見たばかりで手紙をくれたお母さんだと知った。
「帽子と杖《つえ》はそこにお置き下さい。それから私と一緒に部屋の方へお出《いで》下さい」
 こんな風に言って老婦人は岸本を案内した。
「忰《せがれ》はまだ図書館の方ですが追《おっ》つけ帰って参りましょう。忰の家内も今お目に掛ります」
 仏蘭西人の家庭に来て、こうした英語で話してくれる老婦人を見つけることは、まだ土地の馴染《なじみ》も薄い岸本の旅の身に嬉しかった。
 この家の方へ岸本を導いたのは老婦人の姪《めい》にあたる人であった。そのマドマゼエルは純粋な仏蘭西の婦人ながらに遠く日本を慕って行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発《た》つ前にその人に逢《あ》って来た。その時のマドマゼエルは可成《かなり》もう日本の言葉が話せて、紫式部の日記ぐらいは読めるような人であった。日本|狂《きちがい》とも言いたいほど日本|贔負《びいき》の婦人であった。その人が岸本を紹介してくれたのであった。老婦人は居間の方へ岸本を連れて行った。その室内を飾る種々な道具から絵画彫刻の類《たぐい》まで、老婦人の嗜《たしな》みに好く調和したような物ばかりであった。窓に近く机の置いてあるところで、老婦人は東京の方にある姪からの手紙を岸本に取出して見せ、
「姪も無事で暮しておりましょうか。すこしは日本の婦人らしく見えるように成りましたでしょうか」と言って、東洋の果を志して行ったマドマゼエルの身を非常に心配顔に岸本に尋ねた。老婦人はマドマゼエルが自分の兄弟の一人娘であることや、彼女が幼い時分から学問好きであったことや、巴里に居る頃から日本留学生に就《つ》いて古典の一通りを学んだことなぞをも話した。
 岸本は風呂敷包の中から旅のしるしに持って来た国の方の土産《みやげ》を取出した。老婦人はその風呂敷の模様を見るさえめずらしそうに、
「へえ、お国の方ではそういうものを用いますか。面白い模様ですね。でもまあ日本の方にお目に掛って、姪《めい》の噂《うわさ》をするだけでも嬉しい。ああして姪が日本へ行ってしまったのは私が悪いのだ、私の落度《おちど》だ、とそう皆が私のことを申すのです……可哀そうな娘……」
 と言って、仏蘭西を捨てて出て行った姪を思いやるような眼付をした。やがて老婦人はその居間の壁に掛けてある日本の古画なぞを眺めながら岸本に言って見せた。
「日本というものは、私に取っては空想の郷《くに》でしたからね」

        五十九

 しばらく老婦人と話しているうちに岸本はその部屋の長い窓掛まで日本から
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