オた。その時はお母さんも大分やかましかったが、結局自分はしばらく家を出ることに成ったと書いてよこした。お父さんがある病院で知った看護婦長の世話で、自分はこの田舎へ来るように成ったと書いてよこした。その看護婦長は今は女医であると書いてよこした。至極親切な人で、この田舎に住んでいて、毎日のように自分を見に来て慰めてくれると書いてよこした。自分はある産婆の家の二階で、人知れずこの手紙を認《したた》めていると書いてよこした。叔父さんのことは親切な女医にすら知らせずにあると書いてよこした。高輪《たかなわ》の家にある叔父さんの著書をここへも持って来てこの侘《わび》しい時のなぐさめとしたいのであるが、人に見られることを気遣《きづか》って見合せたと書いてよこした。この家に住む人達は親子とも産婆であると書いてよこした。ここは東京から汽車で極《ごく》僅《わずか》の時間に来られる場処であると書いてよこした。片田舎らしい蛙《かわず》の声が自分の耳に聞えて来ていると書いてよこした。自分が産褥《さんじょく》に就《つ》くまでには、まだしばらく間があるから、せめてもう一度ぐらいは便りをしたいと思うが、それも覚束《おぼつか》ないと書いてよこした。姉(輝子)も夫の任地から近く産のために帰国するであろうと附添《つけたし》てよこした。
五十六
森のように茂って行くマロニエとプラタアヌの並木は岸本の行く先にあった。彼はその楽しい葉蔭《はかげ》を近くにある天文台の時計の前にも見つけることが出来、十八世紀あたりの王妃の石像の並んだルュキサンブウルの公園の内に見つけることも出来た。彼よりも先に故国を出て北欧諸国を歴遊して来た東京のある友人が九日ばかりも彼の下宿に逗留《とうりゅう》した時は、一緒に巴里の劇場の廊下も歩いて見、パンテオンの内にある聖ジュネヴィエーヴの壁画の前にも立って見た。普仏戦争時代の国防記念のためにあるという巨大な獅子《しし》の石像の立つダンフェル・ロシュリュウの広場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅人らしい散歩の場所に事を欠かなかった。
しかし仏蘭西の旅は岸本に取って、ある生活の試みを企てたにも等しかった。彼は全く新規な、全く異ったものの中へ飛込んで来た。それには長い年月の間、身に浸《し》みついている国の方の習慣からして矯《ため》て掛らねば成らなかった。彼のように静坐する癖のついたものには、朝から晩まで椅子に腰掛けて暮すということすら一難儀であった。日がな一日彼は真実《ほんとう》の休息を知らなかった。立ちつづけに立っているような気がした。日本の畳の上で思うさまこの身体を横にして見たら。この考えは、どうかすると子供のように泣きたく成るような心をさえ彼に起させた。彼は長い船旅で、日に焼け、熱に蒸され、汐風《しおかぜ》に吹かれて来たばかりでなく、漸《ようや》くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身《からだ》をこうした外国の生活の試みの下に置いた。実際、眼に見えない不可抗な力にでも押出されるようにして故国から離れて来たことを考えると、彼はこれから先どうなってしまうかという風に自分で自分の旅の身を怪んだ。
節子から来た手紙は旅にある岸本の心を責めずには置かなかった。偶然にも岸本の下宿の前に産科病院があって、四十いくつかあるその建築物《たてもの》の窓の一つ一つには子供が生れたり生れかけたりしているということは、何かのしるしのように彼の眼に映った。その石の門は彼の部屋の窓からも見え、その石の塀《へい》は毎日彼が語学の稽古《けいこ》に通う道の側にあたっていた。その多くの窓は町中で一番遅くまで夜も燈火《あかり》が射《さ》していて、毎晩のように物を言った。
「知らない人の中へ行こう」
と岸本はつぶやいた。その中へ行って恥かしい自分を隠すことは、この旅を思い立つ時からの彼の心であった。
五十七
セエヌの河蒸汽に乗るために岸本はシャトレエの石橋の畔《たもと》に出た。何処《どこ》へ行くにも彼はベデカの案内記を手放すことの出来ない程ではあったが、しかし全く自分|独《ひと》りで、巴里へ来て初めて知合になった仏蘭西人の家を訪《たず》ねようとした。
岸本は最早旅人であるばかりでなく同時に異人であった。あの島国の方に引込んで海の魚が鹹水《しおみず》の中でも泳いでいれば可《い》いような無意識な気楽さをもって東京の町を歩いていた時に比べると、稀《まれ》に外国の方から来た毛色の違った旅人を見て「異人が通る」と思った彼自身の位置は丁度|顛倒《てんとう》してしまった。否《いや》でも応でも彼は自分の髪の毛色の違い、皮膚の色の違い、顔の輪廓《りんかく》の違い、眸《ひとみ》の色の違いを意識しない訳に行かなかった。逢《あ》う人|毎《ごと》にジロジロ彼の顔を
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