lは巴里に集る外国人を相手に仏蘭西語を教えて、それを糊口《くちすぎ》としているような年とった婦人であったが、英語で講釈をしてくれるので岸本には好都合であった。取りあえず、彼は語学の教師の許《もと》に通うことを日課の一つとした。
 こうして故国の消息を待つうちに、西伯利亜《シベリア》経由とした義雄兄からの返事が届いた。思わず岸本の胸は震えた。兄は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を読んで茫然《ぼうぜん》自失するの他はなかったと書いてよこした。十日あまりも考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から一寸《ちょっと》上京したと書いてよこした。お前に言って置くが、出来たことは仕方がない、お前はもうこの事を忘れてしまえと書いてよこした。
 兄はまた、これは誰にも言うべき事でないから、母上はもとより自分の妻にすらも話すまいと決心したと書いてよこした。嘉代《かよ》(嫂)には、吉田某というものがあったことにして置くと書いてよこした。その某は例の人を捨てて行方《ゆくえ》不明であるということにして置くと書いてよこした。実は嘉代も今妊娠中であると書いてよこした。のみならず輝子も近いうちに帰国して、国の方でお産をしたいと言って来たと書いてよこした。この輝子の帰国がかちあえば事は少し面倒であると書いてよこした。しかし世の中のことは、曲りなりにもどうにか納りの着くものであると書いてよこした。当方一同無事、泉太も繁も元気で居ると書いてよこした。お前は国の方のことに懸念《けねん》しないで、専心にそちらで自分の思うことを励めと書いてよこした。
 岸本は人の知らない溜息《ためいき》を吐《つ》いた。仏蘭西語の読本を小脇《こわき》に擁《かか》えて下宿を出、果実《くだもの》なぞの並べてある店頭《みせさき》を通過ぎて並木街の電車路を横ぎり、産科病院の古い石の塀《へい》について天文台の前を語学の教師の家の方へと折れ曲って行った。そして語学の稽古《けいこ》を受けた後で、天文台の前の並木のかげあたりに遊んでいる少年を見るにつけても国の方の自分の子供のことを思いやりながら、復《ま》た同じ道を下宿の方へ帰って行った。その年齢《とし》になって、四十の手習を始めたことを感じながら。
 幾度《いくたび》か岸本は兄から来た手紙を取出して、繰返し読んで見た。「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言った兄の心持に対しては、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖はその時になっていくらか彼の胸から離れた。そのかわり、兄に手伝って貰って人知れず自分の罪を埋《うず》めるという空恐しさは、自分一人ぎりで心配した時にも勝《まさ》って、何とも言って見ようの無い暗い心持を起させた。兄の手紙には「例の人」とあるだけで、節子の名を書きあらわすことすら避けてある。彼は母や姉と同時に普通《ただ》ならぬ身であるという彼女を想像した。

        五十五

 間もなく岸本は節子からの便《たよ》りを受取った。彼女は郡部にある片田舎《かたいなか》の方へ行ったことを知らせてよこした。
「到頭節ちゃんも出掛けて行ったか――」
 それを言って見て、岸本は以前の食堂の隣から移って来た新規な部屋の内を見廻した。窓が二つあって、プラタアヌの並木の青葉が一方の窓に近く茂っていた。その並木の青葉も岸本が巴里《パリ》に着いたばかりの頃から見ると早や緑も濃く、花とも実ともつかない小さな栗《くり》のイガのようなものが青い毬《まり》を見るように葉蔭から垂下《たれさが》った。一方の窓は丁度|建築物《たてもの》の角にあたって、交叉《こうさ》した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲《いたがこい》の家だの白い障子の窓だのを眺《なが》め暮した岸本の眼には、古い寺院にしても見たいような産科病院の門前にひるがえる仏蘭西《フランス》の三色旗、その病院に対《むか》い合った六層ばかりの建築物、街路の角の珈琲店《コーヒーてん》の暖簾《のれん》なぞが、両側に並木の続いた町の向うに望まれた。あの大きな風呂敷包を背負って毎朝門前を通った噂好《うわさず》きな商家のかみさんのかわりに、そこには薪《まき》ざっぽうのような食麺麭《しょくパン》を擁《かか》えた仏蘭西の婦女《おんな》が窓の下を通った。あの書斎へよく聞えて来た常磐津《ときわず》や長唄の三味線のかわりに、そこにはピアノを復習《さら》う音が高い建築物の上の方から聞えて来た。それが彼の頭の上でした。
 その窓へ行って、岸本は節子から来た手紙を読返した。彼女はお母《っか》さんの上京後、婆やにも暇を出したと書いてよこした。お父さんが名古屋から上京して初めてあの話があったと書いてよこ
前へ 次へ
全189ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング