キみ》には、故国《くに》の方の娘達にしても悦《よろこ》びそうな白と薄紫との木製の珠数《ずず》を売る老婆《ばあさん》があった。その老婆も仏蘭西人だ。岸本は本堂の天井の下に立って見た。薄暗い石の壁の上には、航海者の祈願を籠《こ》めて寄附したものでもあるらしい船の図の額が掛っていた。寺院の番人に案内されて、更に奥深く行って見た。彩硝子《いろガラス》の窓から射《さ》し入る静かな日の光は羅馬《ローマ》旧教風な聖母マリアの金色の像と、その辺に置いてある古めかしく物錆《ものさ》びた風琴《オルガン》などを照して見せた。その番人も仏蘭西人だ。そこはもう岸本に取って全く知らない人達の中であった。
あわただしい旅の心持の中でも、香港《ホンコン》から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心に掛らない日は無かった。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発《た》った。
五十三
遠く目ざして行った巴里《パリ》に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場《ステーション》であった。そこで彼は倫敦行の絹商に別れ、辻馬車《つじばしゃ》を雇って旅の荷物と一緒に乗った。晴雨兼帯とも言いたい馬丁《べっとう》の冠《かぶ》った高帽子まで彼にはめずらしい物であった。彼は右を見、左を見して、初めてセエヌ河を渡った。まだ町々の響も喧《かしま》しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の中を乗って行った時は、馬丁の鳴らす鞭《むち》の音や石道を踏んで行く馬の蹄《ひづめ》の音まで彼の耳に快よく聞えた。
巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。その辺の往来には朝通いらしい人達、労働者、牛乳の壜《びん》を提《さ》げた娘、野菜の買出しに出掛ける女連《おんなれん》なぞが岸本の眼についた。下宿の女中と家番《やばん》のかみさんとが来て彼の荷物を運んでくれたが、言葉は一切通じなかった。彼は七層ばかりある建築物《たてもの》の内の第一階の戸口のところで、年とった壮健《じょうぶ》そうな婦《おんな》の赤黒い朝の寝衣《ねまき》のままで出て迎えるのに逢った。その人が下宿の主婦《かみさん》であった。この主婦の言うことも岸本には通じなかった。
客扱いに慣れたらしい主婦は一人の日本人を岸本のところへ連れて来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た人らしいことは一目見たばかりで岸本にも直《すぐ》にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを聞取った。部屋へも案内された。
留学生は食事の時間なぞを岸本に説明して聞かせた後で言った。
「この主婦が君にそう言って下さいッて――『寝衣のままで大変失礼しました、いずれ着物を着更《きか》えてから改めて御挨拶《ごあいさつ》します』ッて。君の着くのが今朝早かったからね」
それを聞いていた主婦は留学生と岸本の顔を見比べて、
「お解《わか》りでございましたか」
という風に、両手を岸本の方へひろげて見せた。
独りで部屋に残って見ると、まだ岸本には船にでも揺られているような長道中の気持が失せなかった。旅慣れない彼に取っては、外国人ばかりの中に混って航海を続けて来たというだけでも一仕事であった。熱帯の光と熱とは彼の想像以上であった。その色彩も夢のようであった。時には彼は自分独りぎめに「海の砂漠《さばく》」という名をつけて形容して見たほど、遠い陸は言うに及ばず、船|一艘《いっそう》、鳥一羽、何一つ彼の眼には映じない広い際涯《はてし》の無い海の上で、その照光と、その寂寞《せきばく》と、その不滅とを味《あじわ》って来たこともあった。印度洋にさしかかる頃から船客はいずれも甲板《かんぱん》の上に出て眠ったが、彼も欄《てすり》近く籐椅子《とういす》を持出して暗い波を流れる青ざめた燐《りん》の光を眺めながら幾晩か眠り難い夜を過したこともあった。船は紅海《こうかい》の入口にあたる仏領ジュプティの港へも寄って石炭を積んで来た。スエズで望んで来た小|亜細亜《アジア》と亜弗利加《アフリカ》の荒原、ポオト・セエドを離れてから初めて眺めた地中海の波、伊太利《イタリー》の南端――こう数えて見ると、遠く旅して来た地方の印象が実に数限りもなく彼の胸に浮んで来た。
五十四
新しい言葉を学ぶことによって、岸本は心の悲哀《かなしみ》を忘れようと志した。同宿の留学生が天文台の近くに住む語学の教師を彼に紹介した。その
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