~い船窓に映る波の反射は余計にその部屋を静かにして見せた。彼は波に揺られていることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認《したた》めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりでそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それにも関《かかわ》らず自分は悄然《しょうぜん》として別れを告げて来たものであると書いた。何故に自分が母親のない子供等を残してこうした旅に上って来たか、その自分の心事は誰にも言わずにあるが、大兄だけにはそれを告げて行かねば成らないと書いた。多くの友人も既にこの世を去り、甥《おい》も妻も去った中で、自分のようなものが生き残って今また大兄にまで嘆きをかける自分の愚かしい性質を悲しむと書いた。自分は弟の身として、大兄の前にこんなことの言えた訳ではないが、忍び難いのを忍ぶ必要に迫られたと書いた。自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身《からだ》であると書いた。それが自分の不徳の致すところであると書いた。自分の旧《ふる》い住居《すまい》の周囲は大兄の知らるるごとくであって、種々な交遊の関係から自然と自分も酒席に出入したことはあるが、そのために身を過《あやま》つようなことは無かったと書いた。その自分がこうした恥の多い手紙を書かなければ成らないと書いた。今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りであると書いた。実に自分は親戚《しんせき》にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来《しでか》し、無垢《むく》な処女《おとめ》の一生を過り、そのために自分も曾《かつ》て経験したことの無いような深刻な思を経験したと書いた。節子は罪の無いものであると書いた。彼女を許して欲しいと書いた。彼女を救って欲しいと書いた。家を移し、姉上の上京を乞《こ》い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことであると書いた。この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることであると書いた。とても自分は大兄に合せ得る顔を有《も》つものでは無いと書いた。書くべき言葉を有つものでも無いと書いた。唯《ただ》、節子のためにこの無礼な手紙を残して行くと書いた。自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭《こく》したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。
五十二
三十七日の船旅の後で、岸本は仏蘭西マルセエユの港に着いた。
「あのプラタアヌの並木の美しいマルセエユの港で、この葉書を受取って下さるかと思うと愉快です」
こうした意味の葉書を岸本はその港に着いて読むことが出来た。船の事務長が岸本の名を呼んでその葉書を渡してくれた。多くの仏蘭西人の船客の中でも、便《たよ》りの待遠しいその港で葉書なり手紙なりを受取るものは稀《まれ》であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜《シベリア》経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
初めて欧羅巴《ヨーロッパ》の土を踏んだ岸本は、上陸した翌日、マルセエユの港にあるノオトル・ダムの寺院《おてら》を指して崖《がけ》の間の路《みち》を上って行った。その時は一人の旅の道連《みちづれ》があった。コロンボの港(印度《インド》、錫蘭《セーロン》)からポオト・セエドまで同船した日本の絹商で、一度船の中で手を分った人に岸本は復《ま》たその港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦《ロンドン》まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭《おかげ》と岸本は好い案内者を得た。高い崖に添うて日のあたった路《みち》を上りきると、古い石造の寺院の前へ出た。欧羅巴風な港町の眺望《ちょうぼう》は崖の下の方に展《ひら》けた。
海は遠く青く光った。その海が地中海だ。ポオト・セエドからマルセエユの港まで乗って来る間で、一日岸本が高い波に遭遇《であ》った地中海だ。眼の下にある黄ばみを帯びた白い崖の土と、新しい草とは、一層その海の色を青く見せた。岸本は自分の乗って来た二本|煙筒《えんとつ》の汽船が波止場近くに碇泊《ていはく》しているのをその高い位置から下瞰《みおろ》して、実にはるばると旅して来たことを思った。
寺院《おてら》の入口に立つまだ年若な一人の尼僧《あまさん》が岸本に近づいた。遠く東洋の空の方から来た旅人としての彼を見て何か寄附でも求めるらしく鉄鉢《てっぱつ》のかたちに似た器を差出して見せた。その尼僧は仏蘭西人だ。一人の乞食《こじき》が石段のところに腰を掛けていた。その乞食も仏蘭西人だ。岸本は絹商と連立って寺院の入口にある石段を昇って見た。入口の片隅《かた
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