ニする二三の年若な人達もあった。岸本が二週間あまり世話になった宿屋のかみさんも女中を連れて、外国船の模様を見ながら彼を送りに来た。このかみさんは旅の着物のほころびでも縫えと言って、紅白の糸をわざわざ亭主と二人して糸巻に巻いて、それに縫針《ぬいばり》を添えて岸本に餞別《せんべつ》としたほど細《こまか》く届いた上方風の婦人であった。かねて岸本は独りでこの仏蘭西船に身を隠し、こっそりと故国に別れを告げて行くつもりであった。その心持から言えば、こうした人達に見送らるることは聊《いささ》か彼の予期にそむいた。まばゆく電燈の点《つ》いた二等室の食堂に集って、皆から離別《わかれ》を惜まれて見ると、遠い前途の思いが旅慣れない岸本の胸に塞《ふさが》った。
 ランチの方へ引揚げて行く人達を見送るために、岸本は複雑な船の構造の間を通りぬけて甲板《かんぱん》の上へ出た。友人等は船の梯子《はしご》に添うて順に元来たランチの方へ降りて行った。やがて暗い波間から岸本を呼ぶ一同の声が起った。ランチは既に船から離れて居た。岸本はその声を聞こうとして、高い甲板の上のギラギラと光った電燈の影を狂気のように走り廻った。
 岸本を乗せた船は夜の十一時頃に港を離れた。もう一度彼が甲板の上に出て見た時は空も海も深い闇《やみ》に包まれていた。甲板の欄《てすり》に近く佇立《たたず》みながら黙って頭を下げた彼は次第に港の燈火《ともしび》からも遠ざかって行った。

        五十

 三日目に岸本は上海《シャンハイ》に着いた。船に乗ってから書こうと思った義雄兄への手紙は上海への航海中にも書けなかった。
 嘆息して、岸本は後尾の方にある甲板の上へ出た。更に船梯子《ふなばしご》を昇《のぼ》って二重になった高い甲板の上へ出て見た。船客もまだ極く少い時で、その高い甲板の上には独《ひと》りで寂しそうに海を眺《なが》めている長い髯《ひげ》を生《はや》した一人の仏蘭西人の客を見つけるぐらいに過ぎなかった。岸本は艫《とも》の方の欄に近く行った。そこから故国の方の空を望んだ。仏国メサジュリイ・マリチイム会社に属するその汽船は四月十三日の晩に神戸を出て十五日の夜のうちには早や上海の港に入った程《ほど》の快よい速力で、上海から更に香港《ホンコン》へ向け波の上を駛《はし》りつつある時であった。遠く砕ける白波は岸本の眼にあった。その眺めは、国の方で別れて来た人達と彼自身との隔たりを思わせた。一日は一日よりそれらの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った壁の側から、ともかくもその波の上まで動くことが出来た不思議をも胸に浮べさせた。彼は深林の奥を指《さ》して急ぐ傷《きずつ》いた獣に自分の身を譬《たと》えて見た。
 海風の烈《はげ》しさに、岸本は高い甲板を離れた。船梯子に沿うて長い廊下を見るような下の甲板に降りた。そこにも一人二人の仏蘭西人の客しか見えなかった。明るい黄緑な色の海は後方《うしろ》にして出て来た故国の春の方へ岸本の心を誘った。彼は上海の方で見て来た李鴻章《りこうしょう》の故廟《こびょう》に咲いた桃の花がそこにも春の深さを語っていたことを胸に浮べた。その支那風《しなふう》な濃い花の姿は日頃花好きな姪《めい》にでも見せたいものであったことを胸に浮べた。彼はまた、上海へ来るまでの途中で、どれ程彼女の父親に宛てようとした一通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人も彼の外遊から動かされたと書いてあったことを胸に浮べた。その手紙の中には、恐らく露領の方にある輝子の夫もこれを聞いたなら刺激を受くるであろうと思うと書いてあったことを胸に浮べた。そうした手紙をくれるほどの兄の心を考えると、節子の苦しんでいることに就《つ》いて岸本の方から書き得る言葉も無かったのである。
 香港を指《さ》して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に送られて来て、どうかすると波の上の方へ低く靡《なび》いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂《あによめ》が節子と一緒になってから既に十八九日の日数が経《た》つことをも考えた。否《いや》でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失えば、次の港は仏領のセエゴンまでも行かなければ成らなかった。

        五十一

 船室に行って岸本は旅の鞄《かばん》の中から手紙書く紙を取出した。セエゴンから東の港は乗客も少いという仏蘭西《フランス》船の中で、六つ船床のある部屋を岸本一人に宛行《あてが》われたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は国の方に残して行く義雄兄宛の手紙を書こうとした。
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