沁qという生徒を教えたことがある。彼が書きかけている自伝の一節は長い寂しい道を辿《たど》って行ってその勝子に逢《あ》うまでの青年時代の心の戦いの形見である。訪ねて来た二人の婦人は丁度勝子と同時代に岸本が教えた昔の生徒であった。勝子は若かった日の岸本と殆《ほと》んど同じ年配で、学校を出て許嫁《いいなずけ》の人と結婚してから一年ばかりで亡《な》くなったのであった。
「先生はもっと変っていらっしゃるかと思った」
 そういう昔の生徒は早や四十を越した婦人であった。
 思いがけない人達を見たという心持で、岸本は兄と一緒にそれらの客を款待《もてな》したり出発の用意をしたりした。時には彼は独《ひと》りで座敷の外へ出て二階の縁側から見える港の空を望んだ。別れを告げて行こうとする神戸の町々には、もう彼岸桜《ひがんざくら》の春が来ていた。
 約束して置いた仏国の汽船は午後に港に入った。外国の旅に慣れた番町は町へ出て、岸本のために旅費の一部を仏蘭西《フランス》の紙幣や銀貨に両替して来るほどの面倒を見てくれた。仏蘭西の知人に紹介の手紙をくれたり、巴里《パリ》へ行ってからの下宿なぞを教えてくれたりしたのもこの友人であった。番町はそこそこに支度する岸本の方を眺《なが》めて、旅慣れない彼を励ますような語気で、
「岸本さんと来たら、随分手廻しの好い方だからねえ」
「これでも手廻しの好い方でしょうか――」と岸本は番町にそう言われたことを嬉しく思った。
「好い方ですとも。僕なぞが外国へ行く時は、鞄《かばん》でも何でも皆人に詰めて貰《もら》ったものですよ」
「なにしろ私は一人ですし、どうにかこうにか要《い》るものだけの物を揃《そろ》えました」
 こう言う岸本の側へは民助兄が立って来て、遠く行く弟のために不慣《ふなれ》な洋服を着ける手伝いなぞをしてくれた。
「兄さん、私はあなたに置いて行くものが有ります」と言いながら岸本は一つの包を兄の前に差出した。「この中に、お母《っか》さんの織った袷《あわせ》が入っています。外国へ行って部屋着にでもする積りで、東京からわざわざ持って来たんです。いかに言っても鞄が狭いものですから、これはあなたに置いて行きましょう」
「そいつは好いものをくれるナ」と民助も悦《よろこ》んだ。「お母さんのものは何物《なんに》も最早|俺《おれ》のところには残っていない」
「私のところにも、その袷がたった一枚残っていました。でも随分長いこと有りました。十何年も大切にして置いて、毎年袷時には出して着ましたが、まだそっくりしています。木綿《もめん》に糸がすこし入っていて私の一番好きな着物です。惜しいけれども仕方が無い。まあ、これは兄さんの方へ進《あ》げる」
「じゃ、俺がまた貰っといて着てやるわい」
 兄弟はこんな言葉をかわした。岸本はその母の手織にしたものを形見として兄に残して置いて、すっかり旅人の姿になった。

        四十九

 隠れた罪を犯したものの苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納《みおさ》めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た。そろそろ夕飯時に近い頃であった。船まで見送ろうという友人や民助兄と連立って岸本は宿屋を出た。御影から来た二人の婦人も岸本に随《つ》いて歩いて来た。
 長い坂になった町が皆の眼にあった。一同はその坂を下りたところで物食う場処を探した。ある料理屋の前まで行くと、二人の婦人はそこで岸本に別れを告げた。友人等の案内で、岸本はその料理屋の一間に互いに別れの酒を酌《く》みかわした。弟の外遊を何か誉あることのようにして盃《さかずき》をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥《はじ》の籠《こも》った感謝の盃を酬《むく》いた。
 やがてその料理屋を出た頃は日もすっかり暮れていた。全く言葉の通じない仏蘭西船に上るということは、それだけでも酷《ひど》く岸本の心を不安にした。町々を包む夜の闇《やみ》はひしひしと彼の身に迫って来た。
「言葉が通じないというのも、旅の面白味の一つじゃ有りませんか」
 この番町の言葉に励まされて、岸本は皆と一緒に波止場《はとば》の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛《あ》てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二階でそれを試みたか知れなかった。どうしても、その手紙は彼には書けなかった。彼はどういう言葉でもって自分の心を言いあらわして可《い》いかを知らなかった。そこには言葉も無かった。仕方なしに船に乗ってから書くことにして、到頭彼はその手紙を残さずにランチに乗移った。
 暗い海上に浮ぶ本船へは、友人や兄などの外に岸本を見送ろう
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