B兄弟が互いに助け合うというのはわれわれ岸本の家の祖先からの美風ではないか。それに捨吉の方ばかりじゃない、俺の家でもこれから発展しようというところだ。そう言って俺が嘉代を励ましてやった。まあ見ていてくれ、貴様が仏蘭西の方へ行って帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ――」
気象の烈《はげ》しい義雄がこんな風に話すところを聞いていると、とても岸本は弟の身として節子のことなぞを言出す機会は無いのであった。義雄は神戸まで来て弟の顔を見て行けば、それで気が済んだという風で、用事の都合からそうゆっくりもしていなかった。この時機を失っては成らない。こう命ずるような声を岸本は自分の頭脳《あたま》の内で聞いた。彼は立ちかける兄の袖《そで》を心では捉《とら》えながらも、何事《なんに》も言出すことが出来なかった。
到頭岸本は言わずじまいに、兄に別れた。彼は嫂《あによめ》に一言の詫《わび》も言えず、今また兄にも詫ることの出来ないような自分の罪過《つみ》の深さを考えて、嘆息した。
四十七
神戸の宿屋で岸本は二週間も船を待った。その二週間が彼に取っては可成《かなり》待遠しかった。隠して置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来たようなものの、眼に見えない恐ろしさは絶えず彼を追って来た。今日は東京の方から何か言って来はしまいか、明日は何か言って来はしまいか、毎日々々その心配が彼の胸を往来した。しかし彼は二週間の余裕を有《も》った御蔭《おかげ》で、東京の方では書けなかった手紙も書き、急いだ旅の支度《したく》を纏《まと》めることも出来た。その間に、大阪へ用事があって序《ついで》に訪《たず》ねて来たという元園町の友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供の手紙をも読んだ。
「父さん。こないだは玉子のおもちゃをありがとうございました。わたしも毎日学校へかよって、べんきょうしています。フランスからおてがみを下さい。さよなら――泉太」
これは岸本が志賀の友人に托《たく》して、箱根細工の翫具《おもちゃ》を留守宅へ送り届けたその礼であった。手伝いする人があって漸く出来たような子供らしいこの手紙は、泉太が父に宛てて書いた初めての手紙で、学校の作文でも書くように半紙一ぱいに書いてあった。子供に勧めてこういうものを書かして寄《よこ》したらしい節子の心持も思われて岸本は唯々《ただただ》気の毒でならなかった。
海は早や岸本を呼んでいた。出発前に節子から来た便《たよ》りには、遠く叔父の船に乗るのを見送るという短い別れの言葉が認《したた》めてあった。岸本の胸はこれから彼が出て行こうとする知らない異国の想像で満たされるように成った。彼は神戸へ来た翌日、海岸の方へ歩き廻りに行って、図らず南米行の移民の群を見送ったことを思出した。幾百人かのそれらの移住者の中には「どてら」に脚絆《きゃはん》麻裏穿《あさうらば》きという風俗のものがあり、手鍋《てなべ》を提《さ》げたものがあり、若い労働者の細君らしい人達まで幾人《いくたり》となくその中に混っていたことを思出した。彼はまた、今まで全く気がつかずにいた自分の皮膚の色や髪の毛色のことなどを妙に強く意識するように成った。
出発の日が迫った。いつの間にか新聞記者の一団が岸本の宿屋を見つけて押掛けて来た。
「どうもこういうところに隠れているとは思わなかった」
と記者の一人が岸本を前に置いて、他の記者と顔を見合せて笑った。
この避けがたい混雑の中で、岸本は思いもよらない台湾の兄の来訪を受けた。
「や、どうも丁度好いところへやって来た。船の会社の人がお前の宿屋を教えてくれた」
と民助が言った。
この長兄は台湾の方から上京する途中にあるとのことであった。それを岸本の方でも知らなかった。兄弟は偶然にも幾年振りかで顔を合せることが出来た。
鈴木の兄に比べると、民助はもっと熱い地方の日に焼けて来た。健康そのものとも言いたいこの長兄は身体までもよく動いて、六十歳に近い人とは受取れないほどの若々しさと好い根気とをも有《も》っていた。多年の骨折から漸く得意の時代に入ろうとしている民助の前に、岸本は弟らしく対《むか》い合った。つくづく彼は自分の精神《こころ》の零落を感じた。
四十八
岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城《あかぎ》は堺《さかい》の滞在先から、いずれも宿屋へ訪《たず》ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来て見ると、二十年振りで御影《みかげ》の方から岸本を見に来た二人の婦人もあった。その一人は夫という人に伴われて来た。岸本がまだ若かった頃《ころ》に、曾《かつ》て東京の麹町《こうじまち》の方の学校で
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