ス思いやりの深い調子で、岸本の方を見ながら、
「奥さんのお亡《な》くなりに成ったということから、仏蘭西あたりへお出掛けに成るようなお考えも生れて来たんでしょう」
「とにかく、一年でも二年でも、旅でゆっくり本の読めるだけでも羨《うらや》ましい。加賀町なぞも君の仏蘭西行には大分刺激されたようだ」
と復《ま》た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒を注《つ》いだ。
その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発《た》って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀ない旅の思立から、身をもって僅に逃れて行こうとするような彼は、丁度捨て得るかぎりのものを捨て去って「火焔《ほのお》の家」を出るという憐《あわ》れむべき発心者《ほっしんしゃ》にも彼自身を譬《たと》えたいのであった。こうした出奔が同年配の友人等を多少なりとも刺激するということは、彼に取って実に心苦しかった。彼は何とも自身の位置を説明《ときあか》しようが無くて、以前に仙台や小諸《こもろ》へ行ったと同じ心持で巴里《パリ》の方へ出掛けて行くというに留《とど》めて置いた。
酒に趣味を有《も》ち、旅に趣味を有つ代々木は、岸本の所望で、古い小唄を低声《ていせい》に試みた。復た何時《いつ》逢われるかと思われるような友人の口から、岸本は好きな唄の文句を聞いて、遠い旅に行く心を深くした。
四十四
二人の友人と連立って岸本が塔の沢を発ったのは翌日の午後であった。国府津《こうず》まで来て、そこで岸本は代々木と志賀とに別れを告げた。やがてこの友人等の顔も汽車の窓から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑《にぎや》かな記事を自分の胸に浮べながら、岸本は独《ひと》り悄然《しょうぜん》と西の方へ下って行った。
マルセエユ行の船を神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る必要も無いのであった。唯《ただ》、彼は節子の母親にどうしても合せる顔が無くて、嫂《あによめ》の上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令《たとえ》彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて、郷里の方の嫂|宛《あて》に詫手紙《わびてがみ》を送って置いたにしても。また仮令嫂が上京の費用等は彼の方で用意することを怠らなかったとしても。
神戸へ着いてから四五日|経《た》つと、岸本は節子からの手紙を受取った。それは岸本から出した手紙の返事として寄《よこ》したものであったが、子供等の無事なことや留守宅の用事のようなことばかりでなく、もっと彼女の心に立入ったことがその中に書いてあった。
神戸の港町から諏訪山《すわやま》の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の二階座敷で、彼はその手紙を読んで見た。すくなくも節子に起って来た不思議な心の変化がその中に書きあらわしてあった。過ぐる四五箇月の間、ある時は恐怖《おそれ》をもって、ある時は強い憎《にくし》みをもって、ある時はまた親しみをもって叔父に対して来たような動揺した心の節子に比べると、その中には何となく別の節子が居た。岸本は自分の遠い旅に上って来たことから、何か急激な変化が不幸な姪《めい》の心に展《ひら》けて来たことを感じない訳にいかなかった。
猶《なお》よくその手紙を繰返して見た。節子は岸本の方から詫《わ》びてやった一切の心持を――彼女に対して気の毒がる一切の心持を打消してよこした。今日までを考えると、どうして自分はこんなことに成って来たか、それを思うと自分ながら驚かれると書いてよこした。矢張《やっぱり》自分は誘惑に勝てなかったのだと思うと書いてよこした。しかしこの世の中には、人情の外の人情というようなものがある、それを自分は思い知るように成って来たと書いてよこした。何故《なぜ》叔父さんの手紙には、「お前さん」というような、よそよそしい言葉で自分のことを呼んでくれるか、「お前」で沢山ではないかと書いてよこした。叔父さんの新橋を発《た》つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の音を聞いて、あの音が遠く聞えなくなるまで何時までも同じところにボンヤリ佇立《たたず》んでいたと書いてよこした。叔父さんの残して行った本箱、叔父さんの残して行った机、何一つとして叔父さんのことを想い起させないものは無い、自分は今机や本箱の置いてある部屋を歩いて見ていると書いてよこした。叔父さんが外遊の決心を聞いてから、自分はかずかずの話したいと思うことを有《も》っていたが、どうしてもそれが自分には出来なかったとも書いてよこした。
四十五
節子の手紙を手にして見ると、彼女と共に恐怖を分ち、彼女と共に苦悩を分った時の心持はまだ岸本から離れなかった。
「ああ、酷《ひど》かった。酷かった」
岸本はそれを言って見て
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