「だよ」
足立の部屋に菅と集まって見て、岸本はそこにも不思議な沈黙が旧い馴染《なじみ》の三人を支配していることを感じたのであった。それほど隔ての無い仲間同志にあっても、それほど喋舌《しゃべ》ったり笑ったりしても、互いに心《しん》が黙っていた。
「どうしてもこのままじゃ、僕には死に切れない」
岸本はまた、それを言わずにいられなかった。
これらの談話の記憶、これらの光景の記憶、これらの出来事の記憶、これらの心の経験の記憶――すべては岸本に取って生々しいほど新しかった。何かにつけて彼は自分の一生の危機が近づいたと思わせるような、ある忌《いまわ》しい予感に脅されるように成った。
五
学友の死を思いつづけながら、神田川に添うて足立の家の方から帰って来た車の上も、岸本には忘れがたい記憶の一つとして残っていた。古代の人が言った地水火風というようなことまで、しきりと彼の想像に上って来たのも、あの車の上であった。火か、水か、土か、何かこう迷信に近いほどの熱意をもって生々しく元始的な自然の刺激に触れて見たら、あるいは自分を救うことが出来ようかと考えたのも、あの車の上であった。
生存の測りがたさ。曾《かつ》て岸本が妻子を引連れて山を下りようとした頃にこうした重い澱《よど》んだものが一生の旅の途中で自分を待受けようとは、どうして思いがけよう。中野の友人にやって来たというような倦怠は、彼にもやって来た。曾て彼の精神を高めたような幾多の美しい生活を送った人達のことも、皆|空虚《うつろ》のように成ってしまった。彼はほとほと生活の興味をすら失いかけた。日がな一日|侘《わび》しい単調な物音が自分の部屋の障子に響いて来たり、果しもないような寂寞《せきばく》に閉《とざ》される思いをしたりして、しばらくもう人も訪《たず》ねず、冷い壁を見つめたまま坐ったきりの人のように成ってしまった。これはそもそも過度な労作の結果か、半生を通してめぐりにめぐった原因の無い憂鬱《ゆううつ》の結果か、それとも母親のない幼い子供等を控えて三年近くの苦艱《くかん》と戦った結果か、いずれとも彼には言うことが出来なかった。
中野の友人から貰った手紙の終《しまい》の方には、こんな事も書いてある。
「岸本君、僕はもう黙して可《い》い頃であろう。倦怠と懶惰《らんだ》は僕が僕自身に還《かえ》るのを待っている。眼も疲れ心も疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い蝴蝶《こちょう》がすがれた花壇に咲いた最初の花を探しあてたところである。そしてその蝴蝶も今年になって初めて見た蝴蝶である。僕の好きな山椿《やまつばき》の花も追々盛りになるであろう。十日ばかり前から山茱黄《やまぐみ》と樒《しきみ》の花が咲いている。いずれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅《ろうばい》もどきで、韵致《いんち》の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫《ふる》えている」こう結んである。
中野の友人には子が無かった。曾て岸本の二番目の男の児を引取って養おうと言ってくれたこともあった。しかし、頑是《がんぜ》なく聞分けのない子供は一週間と友人の家に居つかなかった。結局岸本は二人の子供を手許《てもと》に置き、一人を郷里の姉の家に托《たく》した。常陸《ひたち》の海岸の方にある乳母《うば》の家へ預けた末の女の児のためにも月々の仕送りを忘れる訳にはいかなかった。彼はもう黙って、黙って、絶間なしに労作を続けた。
岸本の四十二という歳《とし》も間近に迫って来ていた。前途の不安は、世に男の大厄《たいやく》というような言葉にさえ耳を傾けさせた。彼は中野の友人に自分を比べて、こんな風に言って見たこともある。友人のは生々とした寛《くつろ》いだ沈黙で、自分のは死んだ沈黙であると。その死んだ沈黙で、彼は自分の身に襲い迫って来るような強い嵐《あらし》を待受けた。
[#改丁、ページの左右中央]
第一巻
[#改ページ]
一
神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸《かし》へ出た。そして非常に静かにその河岸を歩いた。あだかも自分の部屋のつい外にある長い廊下でも歩いて見るように。
その河岸へ来る度《たび》に、釣船屋《つりぶねや》米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、きまりで岸本は胸に浮べる一人の未知な青年があった。ふとしたことから岸本はその青年からの手紙を貰《もら》って、彼が歩くことを楽みにする柳並木のかげは矢張《やはり》その青年が幾年となく好んで往来する場所であったことを知った。二人は互いに顔を合せたことも無いが、同じ好きな場所を見つけたということだけでは不思議に一致していた。それから青年は岸本に逢《あ》いたいと言
前へ
次へ
全189ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング