チて来た。その時、岸本は日頃逢い過ぎるほど人に逢っていることを書いて、吾儕《われわれ》二人は互いに未知の友として同じ柳並木のかげを楽もうではないか、という意味の返事をその青年に出した。この岸本の心持は届いたと見え、先方《さき》からも逢いたいという望みは強《し》いて捨てたと言って来て、手紙の遣《や》り取りがその時から続いた。例の柳並木、それで二人の心は通じていた。その青年に取っては河岸は岸本であった。岸本に取っては河岸はその青年であった。
 同じ水を眺《なが》め同じ土を踏むというだけのこんな知らないもの同志の手紙の上の交りが可成《かなり》長い間続いた。時にはその青年は旅から岸本の許《もと》へ葉書をくれ、どんなに海が青く光っていても別にこれぞという考えも湧《わ》かない、例の柳並木の方が寧《むし》ろ静かだと書いてよこしたり、時には東京の自宅の方から若い日に有りがちな、寂しい、頼りの無さそうな心持を細々《こまごま》と書いてよこしたりした。次第に岸本はそうした手紙を貰うことも少くなった。ぱったり消息も絶えてしまった。
「あの人もどうしたろう」
 と岸本は河岸を歩きながら自分で自分に言って見た。
 曾《かつ》てその青年から貰った葉書の中に、「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書いてあった文句が妙に岸本の頭に残っていた。岸本はそれらしい石の側に立って、浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、十八九ばかりに成ろうかとも思われる年頃の未知の青年を胸に描いて見た。曾て頬《ほお》へ触れるまでに低く垂《た》れ下った枝葉の青い香を嗅《か》いだ時は何故とも知らぬ懐《なつ》かしさに胸を踴《おど》らせたというその青年を胸に描いて見た。曾てその石に腰を掛け、膝《ひざ》の上に頬杖《ほおづえ》という形で、岸本がそこを歩く時のことをさまざまに想像したというその青年を胸に描いて見た。
 これほど若々しい心を寄せられた自分は、堪《た》え難いような哀愁を訴えられた自分は、互いに手紙を書きかわすというだけでも何等《なんら》かの力に思われた自分は――そこまで考えて行った時は、岸本はその石の側にも立っていられなかった。
 例の柳並木――そこにはもう青年は来なくなったらしい。以前と同じように歩きに来る岸本だけが残った。

        二

 青年が去った後の河岸には、二人の心を結び着けた柳並木も枯々としていた。岸本の心は静かではなかった。三年近い岸本の独身は決して彼の心を静かにさせては置かなかった。「お前はどうするつもりだ。何時《いつ》までお前はそうして独《ひと》りで暮しているつもりだ。お前の沈黙、お前の労苦には一体何の意味があるのだ。お前の独身は人の噂《うわさ》にまで上《のぼ》っているではないか」こう他《ひと》から言われることがあっても、彼は何と言って答えて可《い》いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野《こうや》に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬《たと》えて見たこともある。先《ま》ず自己の墓を築いて置いて粗衣粗食で激しく労働しつつ無言の行をやるというあの修道院の内の僧侶《ぼうさん》達に自分の身を譬えて見たこともある。「自分はもう考えまいと思うけれども、どうしても考えずにはいられない」と言った人もあったとやら。岸本が矢張それだ。唯《ただ》彼は考えつづけて来た。
 河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋《つな》いである三四|艘《そう》の小舟も見えた。岸本はつくづく澱《よど》み果てた自分の生活の恐ろしさから遁《のが》れようとして、二夏ばかり熱心に小舟を漕《こ》いで見たこともあった。その夏と、その前の年の夏と。もうどうにもこうにも遣切《やりき》れなくなって、そんなことを思いついた。彼が自分の部屋にジッと孤坐《すわ》ったぎり終《しまい》には身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った二階から無理に降りて来て、毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川《すみだがわ》の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復《ま》た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。
「岸本さん」
 と呼びかけて彼の方へ歩いて来る一人の少年があった。河岸の船宿の総領|子息《むすこ》だ。
「こう寒くちゃ、舟もお仕舞《しまい》だね」
 と岸本も忸々《なれなれ》しく言った。彼は十五六ばかりになるその少年を小舟に乗る時の相手として、よく船宿から借りて連れて行った。少年ながらに櫓《ろ》を押すことは巧みであった。
 船宿の子息は岸本の顔を見ながら、
「貴方《あなた》のとこの泉《せん》ちゃんには、よく逢《あ》いますよ」
「君は泉ちゃんを知ってるんですか」と岸本が言った。彼はその少年の口から
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