ノも包みきれないほどの重苦しさがあるでもなく、僅《わずか》に軽い息づかいを泄《もら》しながら庭先の椿《つばき》の芽などを叔父に指して見せた。その庭には勢いよく新しい枝の延びた満天星《どうだん》や、また枯々とはしていたが銀杏《いちょう》の樹なぞのあることが、彼女を悦《よろこ》ばせた。
「親類中で、こんな家に住んでるものは一人もありやしません」
 と節子は半分|独語《ひとりごと》のように言って、若々しい眼付をしながらそこいらを眺《なが》め廻した。
 やがて節子は婆やの方へ行った。彼女の言ったことは不思議な寂しさを岸本の心に与えた。こんな家に住むことが、それが何の誇りだろう。親類なぞに対して外見《がいけん》をよそおうような場合だろうか。こう彼は節子の居ないところで独《ひと》り自分に言って見た。
 荷が着いてからの混雑はそれから夕方まで続いた。夕飯の済む頃になると、岸本は以前のせせこましい町中から離れて来たことより外に何も考えなかった。七年|馴染《なじみ》を重ねた噂好きな人達は最早《もう》一人も彼の家の前を通らなかった。夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥《くるま》のひびきすらしなかった。
「父さん、汽車の音がする」
 と下町育ちの子供等は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層|四辺《あたり》をひっそりとさせた。岸本は越したての屋根の下で身を横にして、家中のものを笑わせるほど続けざまに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。

        三十八

 岸本は既に半ば旅人であった。彼はなるべく人目につくことを避けようとした。送別会の催しなども断れるだけ断った。旅支度《たびじたく》が調《ととの》うまでは諸方への通知も出さずに置いた。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、独りでこっそりと母国に別れを告げて行くつもりであったからで。
 突然な岸本の思立ちは反《かえ》って見ず知らずの人々の好奇心を引いた。彼の方でなるべく静かに動こうとすればするほど、余計に彼の外遊は人の噂に上るように成った。そうした外観の華《はなや》かさは一層彼を不安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡《えばらぐん》に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移したかということを断らずにはいられなかった。先方《さき》から別に尋ねられもしないのに、高輪は彼が青年時代の記憶のある場所であること、足立や菅などの学友と一緒に四年の月日を送ったのもそこの岡の上にある旧《ふる》い学窓であったことを話した。その学窓の附近に極く平民的な大地主の家族が住むことを話した。その家族の主人公にはまだあの界隈《かいわい》に武蔵野《むさしの》の面影が残っている頃からの庄屋の徳を偲《しの》ばせるに足《た》るものがあることを話した。そのめずらしく大きな家族によって、私立の女学校と、幼稚園と、特色のある小学校が経営されていることを話した。彼はその小学校がいかにも家族的で、自分の子供を托《たく》して行くには最も好ましく考えたかを話した。そして、その学園の附近を択《えら》んで自分の留守宅を移したことを話した。
 毎日のように岸本は旧馴染《むかしなじみ》の高台を下りて、用達《ようたし》に出歩いた。下町の方にある知人の家々へもそれとなく別れを告げに寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸《かし》に添いながら、ある雑誌記者と一緒に歩いたこともあった。
「あなたが奮発してお出掛になるということは、大分皆を動したようです」
 この記者の言葉を聞くと、岸本には返事のしようが無かった。地べたを見つめたままで、しばらく黙って歩いた。
「あなたのお子さん達はどうするんです」とまた記者が訊《き》いた。
「子供ですか。留守は兄貴の家の人達に頼んで行くつもりです。姉が郷里《くに》から出て来てくれることに成っていますからね」
「姉さんは最早出ていらしったんですか」
「いえ、まだ……来月でなきゃ」
「あなたは今月のうちに神戸へお立ちに成るというじゃ有りませんか。姉さんもまだ出ていらっしゃらないのに――」
 記者が心配して言ってくれたことは岸本の身に徹《こた》えた。とても彼は嫂《あによめ》に、節子の母親に合せて行く顔が無かった。

        三十九

 長旅に耐えられるような鞄をひろげて書籍や衣服なぞを取纏《とりまと》め、いささかの薬の用意をも忘れまいとする頃は、遠い国に向おうとする心持が実際に岸本に起って来た。
「泉ちゃんや繁ちゃんも、これからは味方になるものが無くて可哀そうですね」
 根岸の姪も高輪へ訪《たず》ねて来て、そんなことを岸本に言った。
「お前達はそんな風に思うかね。叔父さんは
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