ッじようにして置いてあった家の内の諸道具も、柱の上から古い時計を一つ下し、壁の隅《すみ》から茶戸棚《ちゃとだな》一つ動かしする度《たび》に、下座敷の内の見慣れた光景《さま》が壊《こわ》れて行った。
 岸本は遠い旅の鞄《かばん》に入れて持って行かれるだけの書籍を除いて、日頃愛蔵した書架の中の殆ど全部の書籍を売払った。それから、外国の客舎の方で部屋着として着て見ようと思う寒暑の衣類だけを別にして、園子と結婚した時からある古い羽織|袴《はかま》の類から日頃身に着けていたものまで、自分の着物という着物はあらかた売払った。
「節ちゃん、これはお前に置いて行く」
 岸本は節子を呼んで、箪笥《たんす》の抽筐《ひきだし》を引出して見せた。園子の形見としてその日まで大切に蔵《しま》って置いた一重《ひとかさ》ねの晴着と厚い帯とが、そこに残っていた。その帯は園子が結婚の日の記念であるばかりでなく、愛子の結婚の時にも役に立ち、輝子の時にも役に立った。岸本はそれらの妻の最後の形見を惜気もなく節子に分けた。
「泉ちゃんや繁ちゃんのことは、お前に頼んだよ」
 という言葉を添えた。
 裏口の垣根の側には二株ばかりの萩《はぎ》の根があった。毎年花をもつ頃になると岸本の家ではそれを大きな鉢《はち》に移して二階の硝子戸《ガラスど》の側に置いた。丸葉と、いくらか尖《とが》った葉とあって、二株の花の形状《かたち》も色合もやや異っていたが、それが咲き盛る頃には驚くばかり美しかった。狭い町の中で岸本の書斎を飾ったのもその萩であった。植物の好きな節子は岸本の知らない間に自分で萩の根の始末をして、一年半の余を叔父と一緒に暮した家の記念として、新規な住居の方へ運んで行くばかりにして置いてあった。やがて待侘《まちわ》びた朝が来た。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、いらっしゃい。おべべを着更《きか》えましょうね」と節子は二人の子供を呼んだ。
「彼方《あっち》のお家へ行くんですよ」
 と婆やも子供の側へ寄った。
 針医の娘は兄弟の子供の着物を着更えるところを見に来た。泉太も、繁も、知らない町の方へ動くことを悦《よろこ》んで、買いたての新しい下駄で畳の上をさも嬉《うれ》しそうに歩き廻った。
 岸本は二階へ上って行って見た。もっと長く住むつもりで塗り更《か》えさせた黄色い部屋の壁がそこにあった。がらんとした書斎がそこにあった。硝子戸のところへ行って立って見た。幾度《いくたび》か既に温暖《あたたか》い雨が通過ぎた後の町々の続いた屋根が彼の眼に映った。噂好《うわさず》きな人達の口に上ることもなしに、ともかくも別れて行くことの出来るその朝が来たのを不思議にさえ思った。
 最近に訪《たず》ねて来てくれた恩人の家の弘の言葉が不図《ふと》岸本の胸へ来た。
「菅《すげ》さんの言草が好いじゃ有りませんか。『岸本君は時々人をびっくりさせる。――昔からあの男の癖です』とさ」
 これは弘が岸本の外出中に、この家で旧友の菅と落合った時の言葉であった。町に別れを告げるようにして岸本はその二階の戸を閉めた。遠く高輪《たかなわ》の方に見つけた家の方へ、彼は先《ま》ず女子供を送出した。

        三十七

 新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀《いたべい》とで囲われた平屋造りの家の周囲《まわり》を走り廻っていた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、気をつけるんだよ。お庭の植木の葉なぞを採るんじゃないよ」
 岸本は先ずそれを子供に言って聞かせたが、兄弟の幼いものが互いに呼びかわす声を新しい住居の方で聞いたばかりでも、彼には別の心地《こころもち》を起させた。
 節子は婆やを相手に引越の日らしく働いているところであった。まだ荷車は着かなかった。
「漸《ようや》く。漸く」
 と岸本はさも重荷でも卸したように言って、ざっと掃除の出来た家の内をあちこちと見て廻った。以前の住居に比べると、そこには可成《かなり》間数もあった。岸本は節子に伴われながら、静かな日のあたって来ている北向の部屋を歩いて見た。
「祖母《おばあ》さんでも出ていらしったら、この部屋に居て頂《いただ》くんだね。針仕事でもするには静かで好さそうな部屋だね」
 と岸本は節子に言った。丁度その部屋の前には僅《わず》かばかりの空地があって、裏木戸から勝手口の方へ通われるように成っていた。
「叔父さん、持って来た萩《はぎ》を植るには好さそうなところが有りますよ」と言って、節子はその空地の隅《すみ》のあたりを叔父に指《さ》して見せた。
 岸本は南向の部屋の方へ行って見た。そこへも節子が随《つ》いて来た。彼女はめずらしく晴々とした顔付で、まだ姿にも動作
前へ 次へ
全189ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング