「雨が通過ぎた。その雨が来て一切のものを濡《ぬ》らす音は、七年住慣れた屋根の下を離れ行く日の次第に近づくことを岸本に思わせた。早くこの家を畳まねば成らぬ。新しい家の方に節子を隠さねば成らぬ。それらの用事が実に数限りも無く集って来ている中で、一方には岸本は日頃《ひごろ》親しい人達にそれとなく別離《わかれ》を告げて行きたいと思った。出来るだけ手紙も書きたいと思った。岸本はある劇場へと車を急がせた。彼はいそがしい自分の身《からだ》の中から僅《わずか》の時を見つけて、せめてその時を芝居小屋の桟敷《さじき》の中に送って行こうとした。ある近代劇の試演から岸本の知るように成った二三の俳優がその舞台に上る時であった。前後に関係の無い旧《ふる》い芝居の一幕が開けた。人形のように白く塗った男の子役の顔が岸本の眼に映った。女の子にもして見たいようなその長い袖《そで》や、あまえるように傾《かし》げたその首や、哀れげに子役らしいその科白廻《せりふまわ》しは、悪戯《いたずら》ざかりの泉太や繁とは似てもつかないようなものばかりであった。でも、岸本は妙に心を誘われた。彼の胸の中は国に残して置いて行こうとする自分の子供等のことで満たされるように成った。熱い涙がその時絶間なしに岸本の頬《ほお》を伝って流れて来た。彼は舞台の方を見ていることも出来なかった。座にも耐えられなかった。人を避けて長い廊下へ出て見ると、そこには幾つかの並んだ薄暗い窓があった。彼はその窓の一つの方へ行って、激しく泣いた。

        三十五

 岸本は出来るだけ旅の支度を急ごうとした。漸《ようや》く家の周囲《まわり》の狭い廂間《ひあわい》なぞに草の芽を見る頃に成って、引越の準備をするまでに漕《こ》ぎ付けることが出来た。節子は暇さえあれば炬燵《こたつ》に齧《かじ》りついて、丁度巣に隠れる鳥のように、勝手に近い小座敷に籠《こも》ってばかりいるような人に成った。一月は一月より眼に見えないものの成長から苦しめられて行く彼女の様子が岸本にもよく感じられた。彼の心が焦《あせ》れば焦るほど、延びることを待っていられないような眼に見えないものは意地の悪いほど無遠慮《ぶえんりょ》な勢いを示して来た。一日も、一刻も、与えられた時を猶予することは出来ないかのように。仮令《たとえ》母の生命《いのち》を奪ってまでも生きようとするようなその小さなものを実際人の力でどうすることも出来なかった。
 死を思わせるほど悩ましい節子の様子から散々に脅《おびや》かされた岸本は、今|復《ま》た彼女から生れて来るものの力に踏みにじられるような心持でもって、時々節子をいたわりに行った。節子は娘らしく豊かな胸の上あたりを羽織で包んで見せ、張り満ちて来る力の制《おさ》えがたさを叔父に告げた。彼女の恐怖、彼女の苦痛を分つものは叔父一人の外に無かった。
「御免下さいまし」
 という親戚《しんせき》の女の声を表口の方に聞きつけたばかりでも、岸本は心配が先に立った。
 根岸の姪《めい》――民助兄の総領娘にあたる愛子が引越|間際《まぎわ》の取込んだところへ訪ねて来た。輝子や節子が「根岸の姉さん」と呼んでいるのは、この愛子のことであった。愛子は岸本の許へ何よりの餞別《せんべつ》の話を持って来てくれた。それは台湾の父とも相談の上、叔父の末の児(君子)を自分の妹として養って見たいというのであった。
「いろいろ父も御世話さまに成りましたし……それに叔父さんも外国の方へいらっしゃるようになれば、君ちゃんの仕送りをなさるのも大変でしょうと思いましてね……」
 この愛子のこころざしを岸本は有難《ありがた》く受けた。
「そう言えば叔父さんの髪の毛は――」と愛子は驚いたように岸本の方を見て言った。「まあ、白くおなんなすったこと。この一二年の間に、急に白くおなんなすったようですね」
「そうかねえ、そんなに白くなったかねえ」
 岸本は笑い紛わした。
 この「根岸の姉さん」の前で見る時ほど、節子の改まって見えることは無かった。それは節子にのみ限らなかった。姉の輝子とても矢張《やはり》その通りであった。同じ岸本を名のる近い親類でも、愛子と節子姉妹の間には女同志でなければ見られないような神経質があった。のみならず、節子は見る人に見られることを恐れるかして、障子のかげの炬燵の方にとかく愛子を避け勝ちであった。
「君ちゃんの許《とこ》へ一つ送ってやって貰いましょうか」
 と言いながら、岸本は亡《な》くなった長女の形見として箪笥《たんす》の底に遺《のこ》ったものを愛子の前に取出した。罪の深い叔父は、自分の女の児を引取って養おうと言ってくれる一人の姪の手前をさえ憚《はばか》った。

        三十六

 住慣れた町を去る時が来た。泉太や繁の母親が生きている頃と殆《ほとん》ど
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