vい立つように成ってからは客も多く、岸本は家のものと一緒に夕飯の膳に就《つ》くことも出来ない時の方が多かった。
「父さんはお前達にお願いがあるがどうだね。近いうちに父さんは外国の方へ出掛けて行くが、お前達はおとなしくお留守居してくれるかね」
節子は膳の側に、婆やは勝手口に聞いているところで、岸本はそれを子供に言出した。
「お留守居する」
と弟は兄よりも先に膝《ひざ》を乗出した。
「繁ちゃん」
と兄は弟を叱《しか》るように言った。その泉太の意味は、自分は弟よりも先に父の言葉に応じるつもりであったとでも言うらしい。
「二人ともおとなしくして聞いていなくちゃ不可《いけない》。お前達は父さんの行くところをよく覚えて置いておくれ。父さんは仏蘭西《フランス》という国の方へ行って来る――」
「父さん、仏蘭西は遠い?」と弟の方が訊《き》いた。
「そりゃ、遠いサ」と兄の方は小学校の生徒らしく弟に言って聞かせようとした。
岸本は二人の幼いものの顔を見比べた。「そりゃ、遠いサ」と言った兄の子供ですら、何程の遠さにあるということは知らなかった。
三十三
思いの外、泉太や繁は平気でいた。それほど何事《なんに》も知らずにいた。父が遠いところへ行くことを、鈴木の伯父の居る田舎《いなか》の方か、妹の君子が預けられている常陸《ひたち》の海岸の方へでも行くぐらいにしか思っていないらしかった。その無心な様子を見ると、岸本はさ程子供等の心を傷《いた》めさせることもなしに手放して行くことが出来るかと考えた。
岸本は膳の側へ婆やをも呼んで、
「いろいろお前にはお世話に成った。俺も今度思立って外国の方へ行って来るよ。近いうちに節ちゃんのお母さん達が郷里《くに》から出て来て下さるだろうから、それまでお前も勤めていておくれ」
「あれ、旦那《だんな》さんは外国の方へ」と婆やが言った。「それはまあ結構でございますが――」
岸本はこの婆やに聞かせるばかりでなく、子供等にも聞かせる積りで、
「俺は九つの歳《とし》に東京へ修業に出て来た。それからはもうずっと親の側にもいなかった。他人の中でばかり勉強した。それでもまあ、どうにかこうにか今日までやって来た。それを考えるとね、泉ちゃんや繁ちゃんだって父さんのお留守居が出来ないことは有るまいと思うよ……どうだね、泉ちゃん、お留守居が出来るかね」
「出来るサ」と泉太は事もなげに言った。
「父さんが居なくたって、お節ちゃんはお前達と一緒に居るし、今に伯母さんや祖母《おばあ》さんも来て下さる」
「お節ちゃんは居るの」と繁が節子の方を見て訊《き》いた。
「ええ、居ますよ」
節子は言葉に力を入れて子供の手を握りしめた。
何時《いつ》伝わるともなく岸本の外遊は人の噂に上るように成った。彼は中野の友人からも手紙を貰った。その中には、かねてそういう話のあったようにも覚えているが、こんなに急に決行しようとは思わなかったという意味のことを書いて寄《よこ》してくれた。若い人達からも手紙を貰った。その中には、「母親のない幼少《おさな》い子供を控えながら遠い国へ行くというお前の旅の噂は信じられなかった。お前は気でも狂ったのかと思った。それではいよいよ真実《ほんとう》か」という意味のことを書いて寄してくれた人もあった。こうした人の噂は節子の小さな胸を刺激せずには置かなかった。諸方《ほうぼう》から叔父の許へ来る手紙、遽《にわ》かに増《ふ》えた客の数だけでも、急激に変って行こうとする彼女の運命を感知させるには充分であった。彼女は叔父に近く来て、心細そうな調子で言出した。
「叔父さんはさぞ嬉しいでしょうねえ――」
叔父の外遊をよろこんでくれるらしいこの節子の短い言葉が、あべこべに名状しがたい力で岸本の心を責めた。何か彼一人が好い事でもするかのように。頼りのない不幸なものを置去りにして、彼一人外国の方へ逃げて行きでもするかのように。
「叔父さんが嬉しいか、どうか――まあ見ていてくれ」
と岸本は答えようとしたが、それを口にすることすら出来なかった。彼は黙って姪《めい》の側を離れた。
三十四
叔父を恐れないように成ってからの節子の瞳《ひとみ》は、叔父に対する彼女の強い憎《にくし》みを語っているばかりでも無かった。どうかするとその瞳は微笑《ほほえ》んでいることもあった。そして彼女の顔にあらわれる暗い影と一緒に成って動いていた。
「妙なものですねえ」
節子はこうした短い言葉で、彼女の内部《なか》に起って来る激しい動揺を叔父に言って見せようとすることもあった。しかし岸本は不幸な姪の憎みからも、微笑《ほほえみ》からも、責められた。その憎みも微笑も彼を責めることに於《お》いては殆んど変りがなかったのである。
温暖《あたたか》
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