、ここにも何か間違いでも起りそうだわい」と言ったように見返り見返りした。ひょっとすると、当分これぎり兄を見る時がないかも知れない。この考えが閃《ひらめ》くように岸本の頭脳《あたま》へ来た。彼は誰を相手に言葉の上の争いをしようでは無かった。唯自分を投出そうとしていた。そして一切を生命《いのち》の趨《おもむ》くままに委《ゆだ》ねようとしていた。その前途の不安を胸に持って、彼は兄が別れを告げて行った後まで長いこと廊下のところに立ちつくした。
それから数日の後、岸本が節子のことを案じ暮しているところへ彼女から手紙が届いた。それによって岸本は節子の一度は遭遇しなければ成らないような時機が到頭彼女の上にやって来たことを知った。彼女は前にも一度あった縁談を復《ま》た布施さんから持出したことから始めて、布施さんがその話をして帰った後では父はもうすっかりその気に成っていたということを書いてよこした。自分へは祖母さんからその話があったが、堅く断ったと書いてよこした。それが父の意にさからって、今更そんな下手な哲学者の悟《さとり》を開いたようなことが言えるかという烈《はげ》しい父の言葉の末に、嫁にも行かないようなものは不具の外には無い、不具のようなものは養う義理も無い、最早《もはや》親でもなく子でもない、今直ぐ出て行けというような話があったと書いてよこした。自分はこれ程お願いしても聞かれないのかと言出して見たところ、勿論《もちろん》と大きく叱《しか》られ、いっそ家を出てしまおうと思い、御|挨拶《あいさつ》して父の前を退《の》こうとした時、待て、そこへ坐れと言われて、復たさんざん種々《いろいろ》な話があったと書いてよこした。その晩はそのままになって、翌日叔父さんの許から父の帰って来る頃には中根の姉も電話で呼びよせられ、父と姉との間にいろいろな話が出たと書いてよこした。そして姉を通して、無理には勧めないというだけの父の答を聞いたが、この間に立って皆を言い宥《なだ》めたのは祖母さんであったと書いてよこした。一旦《いったん》家を出てしまおうと思った時、叔父さんの手紙だのその他種々なものは一ト纏《まと》めにしたが、未だそのままにしてあるとも書いてよこした。最後まで忍ぶものは救わるべし、自分は今可成張りつめた心でいられるとも書いてよこした。
百十五
岸本の書き溜《た》めて置いた
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