ノ節子だけには話して、彼女の承諾を求めたいと思ったが、何事も未だ彼は話さずに置いた。
 節子は露領の方から近く帰国するという報知《しらせ》のあった姉夫婦の噂《うわさ》なぞをした後で、
「どうしてそんなに人の顔を見ていらっしゃるんです」
 と岸本に訊《き》いた。
 二間続いた離座敷《はなれ》には、同じ部屋の内に書斎もあれば、客間もあれば、茶の間もあった。岸本は湯をたやさずにある火鉢《ひばち》の方へ節子を誘って、自分の好きな熱い茶を彼女に勧め、自分でも飲みながら、本当にその畳の上に親めるような心になった。
「今日はお前が来ると言うんで、久しぶりで髭《ひげ》を剃《そ》って待っていた――髭でも延びてる時はそうは思わないが、これを剃ってサッパリすると、自分ながらそう思うね。こうして独《ひと》りで置くのは惜しいものだと思うね」
 こうした岸本の冗談が節子を笑わせた。
 岸本はその心で節子を見た。何時の間にか彼女の生命《いのち》も、あだかも香気を放つ果実《くだもの》のように熟して来ていた。彼はその見違えるほど生々とした表情を彼女の外貌《がいぼう》のどの部分にも看《み》て取ることが出来た。彼女の濃くなった髪の毛にも、彼女の冴《さ》え冴《ざ》えとした眸《ひとみ》にも。あの帰国当時の義雄兄の言草ではないが、「片輪の一人ぐらい」とまで周囲のものから見られるほど衰え果てた人を、ともかくもそこまで生かすことが出来たその人の知らない骨折を思うと、彼にはいくらか自分で慰めるに足るような気がした。
「それはそうと、吾儕《われわれ》の小さな歴史も始まってから何年に成るだろう」
「今年で六年越しじゃありませんか」
「そうか――もう六年越しかねえ」
 岸本は節子と二人でこんな言葉をかわした。その時、彼は節子に訊いて見た。
「節ちゃん、俺は疾《と》うからお前に訊いて見たいと思っていたんだが――お前の『創作』というのは一体何時頃から始まったんだろう。お前の方が俺《おれ》よりも早いことだけは分ってる」
「いずれ手紙にしてお目に掛けますよ」
 と節子は伏目勝ちに答えた。
 その日は岸本は女の手を煩わしたいと思う細々《こまごま》とした仕事を一日節子に手伝って貰《もら》った。近くの町で彼は眼の悪い義雄兄のために手ごろな杖《つえ》を見立てて買って来て置いた。その杖を持たせて節子を谷中《やなか》の方へ帰した。

   
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